流雲爽空風流記


三方原の合戦より敗退してきた徳川家康殿。

追撃してきた武田軍を犀ヶ崖の戦いにより、一矢を報い帰城しました。


一矢を報いたとはいえ、体制を建て直し追撃してくる武田軍に対し、浜松城を攻略させないように策を練ります。

「虚城の計」という策を発動しました。

城の門を開き、たいまつをガンガンに焚き、城内に入れるのをあえてアピールし、逆に「なにか罠があるのでは!?」と敵に思わせ、近寄らせないという策。。。

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マジかぃ!!って思いますが、

武田軍は上洛(京都に向かう)途中で、なるべく兵力を減らしたくない。
三方原の合戦で家康をほぼ壊滅状態までにしたため、更に進軍しても後ろから追撃される心配は無いため、浜松城を陥落させる必要はない。。。

など、勝手な妄想が広がってしまいますが、実際に武田軍は浜松城を攻めることはしませんでした。。。


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ここで浜松城の説明。。。

浜松城は以前に「曳馬城、引馬城(ひくまじょう)」と呼ばれていました。

徳川家が所有する前は、今川家が所有し、初めてこの場所に築城したのも今川家といわれています。


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1560年の織田信長VS今川義元「桶狭間の合戦」により今川義元討ち死にし、今川家が没落。

1568年に徳川家に攻略されました。
そして、1570年。武田信玄の駿府方面からの侵攻に対処する為に、三河の岡崎城(愛知県)より曳馬城(浜松)に本拠地を移動させました。その際城の名前も「曳馬城」から「浜松城」に改名しました。


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徳川家臣が次々に浜松城に移封(転勤みたいなもん)され、次々に幕府の重役になっていったことから「出世城」と呼ばれていました。

現在の浜松の地酒の「出世城」も大変おいしゅうございますヾ(@°▽°@)ノ。。。


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今川時代からの石垣が残っており、とても荒々しく、それでいて美しい石垣が浜松城の特徴であります。

切りっぱなし的な野面積みの石垣は意外にあまり見かけませんよね。。。

石垣=仙台の青葉城↓
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みたいに、きれいな表面で切り方もきれいな石垣を思い浮かべる方が多いと思いますが、もっと昔は隙間も多く、小さい石が差し込まれた部分もあるような石垣だったんですよ?

日々、いろいろなものが発達していますが、石垣も発達していたんですよね(^O^)


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でもここのは、とても抜けやすいので、引き抜かないでください!!一つ抜くと崩れます。。。

んな、あほなぁ( ̄Д ̄;;

崩れませんが、抜かないでね(ノω・、)


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さぁ~て、中に突入してみますかぁ~!!