本来は信繁。生前は幸村とは一度も呼ばれた事がない。あまりに徳川の天敵だった為、江戸幕府下では名前すら使われなかった。源義経・足利尊氏に匹敵するヒーロー。 

大阪城の戦いで活躍。自分で采配するのは初戦にも等しい。

旧知の者数十名と、九度山の村人40人とともに入城したとある。その後一手を任され2000人程を率いた。(※自分の正式な部下は数十名で、後は村人だけの寄せ集めだったと解る)

初の野戦相手が伊達の騎馬鉄砲で、その強さは武士の次男三男からなる死兵と対戦した。

そこで幸村は川を渡る敵の目前で甲冑を付けさせ、手荒な新兵訓練をした。寄せ集めの部隊で、ある者は逃げだし崩れかけたが押し返したとある。




※あの訓練の意味は、戦争は実際、参加人数が大きく左右する。2000人の軍勢と言えば多く感じるが、実際に戦う人は20%前後と言われてる。それが2000人全員参加して戦えば、1万の軍勢相手でも引けを取らない。
唯一の例外は、武田信玄と上杉謙信になる。(あの二人は異常)
※追い詰められた兵は極限で最大の強さを発揮する。よく島津が使ったり戦法だったのだろう。この戦いを見ていた島津義弘は「真田日本一の兵」と褒め称えた。

→自称「武士」を名乗る輩も居たと思う。それを見分けるのは難しい。甲冑を早く付けるのは日々の訓練が必要だから見分けれるって算段だろう。
そして逃げた奴らが真っ先に狙われる。

※この戦いで、伊達政宗は戦闘不能になったと見ていい。総指揮官 水野勝成の書いた本には、今こそ追撃をすべきだと何度も政宗に使いを出したら本人が乗り込んできて
「だから、できねーって言ってるだろうが!」って怒鳴り込んだそうな。死者負傷者が多すぎてそれどころでは無いと。これは引き分けでは無いよね。








父 真田昌幸(武藤喜兵衛)
 信玄から土屋と武藤は我が両目と言われる程の信頼をえた猛将。と言うより川中島の戦いで、奥近衆ではこの2人だけ逃げなかったのが評価された。
 関ヶ原の時は秀忠軍38000を足止めに成功した。戦いを前に指揮官を集めて事前に知行10倍を約束し、真田軍以外の誰でも敵の首1つにつき知行百石も約束した。
 これは自身が約束された加増に比例して、部下にも明確な加増を約束をしてる。決戦の意味を判らせるために。しかもそれぞれの身分に合わせて。
ただの戦争だけの人ではなかった。

 豊臣秀吉の囲碁相手もしていて、秀吉から「表裏比輿者」と紹介された男。(比輿とは神輿ミコシのような人→から変化した。どちらの意味かは不明)

※土屋昌次
 長篠の戦いで戦死。のちに武田家滅亡後に井伊直政に預けられた土屋衆とはこの部隊。







武田信玄
 戦国最大の勢力を誇った大国の指導者。百万石の大名でも侍を2000人も集めれれば良い方なのに、信玄は9500騎の侍を育て上げた。
 元々、男子好きなようで、性格の違う者同士を組ませて成長させようとしたりしてる。お気に入りの侍同士がケンカした仲裁の手紙や、最も愛した男に送った言い訳の手紙も残っている。とてもマメな性格。





山県昌景





武田家 馬場信春
 若き信玄から信濃攻略の全権者として金の采配を拝領したと言われてる。
本多と同じように、鉄芯の槍を持ち一度も刀傷を負った事のない猛者。長篠の戦いで活躍。戦場常在を戒めにしていた。






武田家 高坂昌信
 若き日の信玄が愛した男。信玄に子供ができ、妻と仲良くしてると聴いた昌信が怒ったらしく、それを言い訳する手紙が残ってる。「あれは子作りの為に仕方なく…」って言い訳の内容。妻の立場は?って感じ。
 甲陽軍鑑の著者。







武田勝頼
 強過ぎる将と言われるように、初陣で一騎討ちを演じ、北条攻めでは甲冑も付けずに城に攻め込んで信玄が心配をしてる。
手紙を見る限り、とても美しい文章を書いている。







武田信繁
 戦国の副将として3本指に数えられる名将。息子に残した遺言状は江戸時代、武士の教本にされている。(武田信繁家訓)



※秋山信友
 武田家から見れば、一辺境派遣軍団長だけど、織田家から見れば美濃一国を脅かした男。







山本勘助
 調略などを担当する上級参謀のような働きをしていた事が、文章でも見れる。
「ヤマカン」とはこの人からきてる。一部を聞いただけで、いかにも見てきたかのように的確に状況を知ってる所から言われる。




武田信虎
 信玄の父。力で甲斐に君臨した男。結局、今川の元へ追放される。敵も忠臣にも、女子供も容赦しない残忍な男。







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