第13話 「野口って変わったなあ」の巻
廊下に出て、冷たい灰色の壁に額を押しつけた。大きなため息がもれる。テレビのニュースや新聞で、数々の卑劣な犯罪や無惨な事故を見てきたが、こんな連中の存在は全く知る由もなかった。このような集団こそ真っ先に撲滅すべきなのだ。野放しにしておくから、僕のように誠実な人間がひどい目にあう。
僕の肩を誰かがトンと叩いた。
「落ち着いたか?」
野口だった。野口は水の入ったグラスを僕に手渡し、僕に並んで壁に寄りかかった。
「そんなにここが気に入らないか?」
僕は冷たい水を飲み干してから答えた。
「やっぱり普通じゃ考えられないよ。お前らみんな、ピラミッドの頂上にいる人間じゃないか。こんな所にいるべきじゃない。本当なら社会の先端で活躍してるはずだろ。」
「その言葉なら、そっくりお前に返すよ。お前今まで、何してた?適当な会社に就職して、仕事にやりがいも感じずに、適当な毎日送ってたんじゃないのか?」
その通りだ。僕は大学を卒業して、適当な会社で、適当に仕事をしていた。僕は何しろ完璧だから、適当に仕事をこなして、五時になったらすぐ帰るような毎日を送っていても、業績は常にトップだった。しかし確かに、やりがいなんて感じていなかった。僕は仕事なんかより、ワイルドさの追求で忙しかったから。
「じゃお前は?お前は何してたんだよ。」
「俺か?何もしてなかったよ。毎日、好きなことばかりしていた。就職するでもなく、勉強するでもなく。理由は、おそらくお前と同じだろうな。」
「何だ、それ?」
野口はふうっとため息をついた。
「将来の夢が、ないんだよ。うぬぼれてるみたいだけど、実際、俺もお前も器用だからさ、何をやったってうまく行くんだよな。そうすると、自分にはこれしかないっていうものが、見えてこないんだよ。」
僕は少し驚いていた。野口という男は、僕の知るかぎりでは最も自信過剰で秘密主義で、いつも他人を冷たく見下しているような人間だった。それが今はどうだ。
「だからここは、何ていうかな、軽井沢なんだよ。」
「軽井沢?」
「あんまりいい例えじゃないけどな。こうして世間からすっかり離れて、自分の夢とか、将来とか、じっくり考えるんだ。ここはそういう場所だよ。俺たちは学生時代にちやほやされすぎて、忙しかった。今は運良く与えられた休暇を、満喫しておけばいいんだよ。」
僕はまじまじと野口を見た。
「野口、変わったなあ。」
「そうか?」
「でも、本気であの衣装着て、得体の知れないヒーローなんか気取るつもりなのか?」
「気持ちはよくわかる。だが、そのうちお前もここの楽しさがわかってくるよ。恥ずかしいって言えば、少し恥ずかしいけどな。よし、そろそろ戻ろう。皆が待ってるよ。」
そう言って野口は壁にもたれていた体を起こした。
「やっぱり野口変わったよ。昔はあんなに現実的で、理屈っぽかったのに。」
「そうだなあ、ここに来てから、理屈っていう定規で物事を測ってないな。しかし、かのヴォルテールも『無駄は必要だ』と言っている。」
野口に肩を押されて、僕はしぶしぶ会議室のドアに手をかけた。