人はなぜブログを始めてしまうのか。

 

理由は人それぞれだろう。活動の報告だったり、商売の一環であったり、芸事の成果の披露だったり、知人には言えない愚痴を吐く場所が欲しかったり。

つまり何かしらの「見て欲しい」という思惑があって始めてしまうのだ。

見て欲しくなければ世界中の人間が見る可能性のあるインターネット上に意味のある文章や画像など置いておかないはずだ。

自分だけの秘密の日記帳にでもしたためておけばいい。

例外としてインターネットが世界中からアクセスできる場所だと認識してないケースもあるが、ほとんどの人はそうではない。

そしてわたしもそのケースには当てはまらない。

 

「なぜ急にブログ開始直後に何の挨拶もなく当たり前のことを言い出したんだ、こいつは」

わたしのブログを読んでいるあなた、文言は多少違えど少しはこう思ったはずです。

その疑問にお答えします。

わたし自身「なぜわたしはブログを始めたいんだ?」と疑問に思っているからです。

「サービスに登録して、諸々設定して、文章書いたり画像用意したり、死ぬほどめんどくさいじゃないの」と思いつつ、「でもブログ始めたいな」という欲求がずっと頭の片隅にこびり付いていたからです。

 

とりあえず、名の知れたブログサービスであるアメブロに登録して、プロフィールを簡単に設定する。

人によっては朝飯前のステップだが、わたしはその時点で既に「いやめんどくさ……アプリはなんか頻繁にバグってくるし、紹介する自己なんか明確に認識してねぇよ……」と全く辟易していた。

そんな奴が書きたいブログ記事は一体何なんだ。考えねば。

 

そんなわけで、冒頭の"当たり前"をもう一度おさらいした。

わたしは『見て欲しい』何かがあるのだろう。

 

──お前、自分の何を人に見て欲しいの?

 

頭の中で自身に問うてみても、見て欲しい自分なんかTwitterの140文字のツイートで既に間に合ってるのだ。

 

わたしは自己も把握できない程のブレブレ人間だ。加えてかなりの面倒くさがりで雑な人間だ。

絵を描くのが好きだが、その好きなはずの絵を描いている最中でも描きたいものが次から次にブレて、早く次の描きたいものを描きたくて必要な手順を「めんどくせぇ」と零してはすっ飛ばし、雑に仕上げてしまう。

 

以前、何もかもを面倒くさがり過ぎて心身共に健康を害し危機感を覚え、「面倒臭いと思ったら、その後すぐに『〜と普通ならなる所ですが、わたしはちゃんとしてるので』と考え、自分自身を褒めて促す」というセルフ心理操作を行ったことがある。

実際にちゃんと出来た暁には、それがどんな些細な事──例えば、小説の中で読めない漢字が出てきた時にちゃんと読み方を調べるとか──であってもいちいち「ちゃんとしてる~!」と自身を褒め称え、わざとらしく表情筋をフルに使ってドヤ顔を作ることにしていた。

出来なくてもちゃんと「ま、いいか」で済ませる。

「ま、いいか」はちゃんとしてる人御用達の思考なのだ。お分かり頂けるだろうか。

 

これは当時かなり効果があった。

毎日、朝決まった時間に起きて、布団を畳み歯を磨き、顔を洗い、洗面台に飛び跳ねた水を拭き、寝間着から着替え、ネルドリップでコーヒーを煎れ、机に向かいスケジュールを確認し、姿勢を正して仕事をし、食事の時間になれば自炊をし、調理しながら出た洗い物を済ませ……今思うとかなりちゃんとしていた。

その頃、部屋も床にチリひとつなかった。全ての持ち物は所定の場所に収納されていた。

セルフ心理操作が習慣化し過ぎて、ひとりで外に出ている時にふいに全力のドヤ顔をキメてしまい不審者然としてしまうのが難点、という微笑ましいオチもついた。

 

しかしわたしは面倒臭がりで雑なだけでなく、ブレブレ人間だったのだ。

 

「……いや、ちゃんとしてるから、何?」

ある日突然、急に何かのブレーカーがバツンと落ちた。

 

別段何かが変わった訳では無い。

忙しくなった訳でもなく、むしろ整頓された「ちゃんとした」生活は日々の行動に余裕すら与えていた。

しかしブレーカーは落ちてしまったのだ。以降、そのセルフ心理操作は全く効果を発揮しなくなった。

 

声に出して言ってみる。

「面倒臭い……と普通ならなる所だけど、わたしはチャントシテイルノデ……」

シーーーン。ひとつもやる気が湧いてこない。

魔法の言葉は突然その魔力を失い、ただの音に成り下がった。

 

そして始まる昼夜逆転の生活。コーヒーが飲みたいけど面倒くさくて欲求自体を放置。食事も面倒だからそもそも食べなくなり、机に向かう姿はせむし男のような猫背で、椅子の上で片足あぐらをかいて常に内臓を圧迫し、仕事の資料等の出したものは出しっぱなしで、汚したくないものはそもそも出さなくなり、結果小説を読んだり画集などを眺める時間は激減した。

全くちゃんと出来なくなった。メンタルもフィジカルもどんどん健康を損なってゆく。

唯一、どんな時でも飼い猫の世話だけはなんとか変わらずこなして生きているが、ちゃんとしていた時と本当に同じ人間なのだろうか。

あまりにも極端で突然過ぎやしないだろうか。

 

このように、わたしはわたしがわからない。

世界一信用ならないのは自分自身だ。

 

本棚に置かれた、丁寧な暮らしを紹介する雑誌の背表紙に目をやる。

ちゃんとしていた時に買って、ちゃんとしていた時に読んでいたものだ。

今は散らかるのが嫌で本棚から出す気がしない。内容は大体覚えている。

 

この雑誌で紹介されている人たちは、わたしのように急にブレーカーが落ちることは無いんだろうか。

 

なぜなんだ。

なぜ毎日、丁寧に、子どもを育てているかたわらで野菜を育てたり、ハーブを育てたり、糠床を育てたりできるのだ。

なぜ、そこから更に育てた野菜で常備菜を作って野田琺瑯の容器で保存したり、育てたハーブを使っておかずを作り益子焼の皿に盛ったり、曲げわっぱの弁当箱に詰めたりして子どもとピクニックに出かけたりできるのだ。

そして、なぜ、謎のブレーカーが落ちること無くずっとそれを続けることが出来るのか。

 

わたしも野田琺瑯の保存容器や、新進気鋭の若手陶芸家が捻り出した益子焼の皿や、秋田の職人から買い付けた曲げわっぱの弁当箱なら持っている。

ダンスクの鍋だって持っているし、本榧の分厚いまな板も持っている。

どれも使い勝手が良くなかったり手入れに手間がかかって仕方なく、今や絶対に使いたくない。

現在は保存容器も食器もまな板も百均で買った耐熱抗菌プラスチックのものを愛用している。

割れないし腐らないしカビないし錆びない。手入れが楽で軽いし使い勝手もいい。壊れたら躊躇無く捨て買い直せる。

見た目は全然可愛くないが気にならない。どうでもいい。面倒じゃないから。

なぜなのだ。

 

ブログを始めるにあたり、何を書いているんだろうと、丁寧に暮らしている人たちのブログなどをサッと薄目で眺めた。

直視すると、ちゃんとした人たちの丁寧力の高さで今のわたしは蒸発してしまう気がしたからだ。

ああ、やっぱり野田琺瑯の保存容器だし、お皿は料理毎に違うオシャレなデザインで、弁当箱は曲げわっぱだったりシーガルのフードキャリアだったりするし、チラッと写ったストーブがアラジンで注ぎ口の細いケトルが乗ってたりする。

この人たちは百均で買うものも果てしなくオシャレだ。常に面倒くさがらずに考えて買い物をしている。

どうなってんだ。自分が持ってる使われていないちゃんとした物に思いを馳せて、それらに謝りたくなる。

 

こうして五里霧中のままに書き出して気付いた。

つまりそれは、自分の中に再び「ちゃんとしないとヤバイ」という気持ちが芽生えているという事だ。

いつの間に帰ってきてたんだお前。

 

するってぇと、「ブログを始めたい」と思っていたのはコイツだったんじゃねぇか。

理由は多分、「ちゃんとしてる人はブログとかやってるから」という形だけを追いかけた浅いものだ。

琺瑯容器や曲げわっぱの弁当箱を買った時もそう思っていたから間違いない。

 

という事は、「見て欲しい」以外にもブログを始める理由があるって事じゃないか。

最初の前提が覆ってしまった。この話、何だったの?疲れたよ。結局ブログって何書けばいいの?

 

やっぱりわたしはわたしがわからない。

 

という事で、第一回目の記事には見て欲しいことも無い癖にブログを始めてしまった、ただちゃんとした人の真似をしたいだけの自分自身を記して自戒と致します。