(2007年8月~夏の終わり)
この所 遠縁の方の訃報が2つ続きました。
1人は、62歳の元気な女性。楽しい旅行での交通事故でした。
もう1人は。77歳の男性。長崎で少年の頃被爆。
奇跡的に~現在まで、家族に恵まれた人生を送られましたが、癌で天国へ
人の寿命・・・・・この言葉は、今だに母を思い出します
又 戦時中の話 続編みたいですが、
戦中空襲警報が発令されると、指定の避難場所に避難する事になってました。
大阪の6月7日も、発令と同時に沢山の方が(淀川堤防の敷地)に避難されました。
所が其処に爆弾(流れ弾)が・・・・大勢の方が亡くなりました。
今も千人塚があります。
空襲り日 近所の老人(お爺ちゃんとお婆ちゃん)を預かってたので、
逃げ遅れた私達は、焼夷弾の中をくぐり公園へ、
お爺ちゃんは、大樹の陰で「ここにいてる。ほっとてくれ」
仕方ないので、お婆ちゃんを乳母車に乗せて私が押して
弟を背負った母と、公園を後にしました。
後日私が、お婆ちゃんを伏見の親戚まで送り、沢山食料を頂きました。
また、お爺ちゃんも無事だったそうです。
亡くなられた 気の毒な方達のことを 母は、
「辛い運命だけど、産まれた時に、ここまでの寿命だったと、思うしかない
公園のお爺ちゃんも寿命があったんや。
私達も、あの2人預かってなかったら、
堤防に避難して死んだかも。運命が味方してくれた」
家を焼け出された私達は、母の父の家(徳島県)に疎開しました。
疎開生活の出来ない母は、戦時中なのに帰阪。
家族で暮らし始めて・・・・8月14日。京橋の空襲。
そして終戦。「あぁ~これで もう爆撃はないね」と。母の本音です。
私は、日本は神の国。戦争に負ける筈がない。何かの間違い
国民学校を出て女学生になった、軍国少女でした。
そんな母が、 あっけなく37歳で逝きました。
戦時中の、あの時の母の言葉を思い出したものです。
豪快な母も「産まれた時、寿命は決まってた。悪い運命だった」と。
少女の私は、自分を納得させました。
元気な62歳の女性も、被爆した男性も、ここまでの寿命だったのでしょう。
人の生死が簡単に運命だの、寿命だので片付けられては悲しすぎますが、
母なら、そう言うかも。 心から、ご冥福をお祈り致します。
この所 遠縁の方の訃報が2つ続きました。
1人は、62歳の元気な女性。楽しい旅行での交通事故でした。
もう1人は。77歳の男性。長崎で少年の頃被爆。
奇跡的に~現在まで、家族に恵まれた人生を送られましたが、癌で天国へ
人の寿命・・・・・この言葉は、今だに母を思い出します
又 戦時中の話 続編みたいですが、
戦中空襲警報が発令されると、指定の避難場所に避難する事になってました。
大阪の6月7日も、発令と同時に沢山の方が(淀川堤防の敷地)に避難されました。
所が其処に爆弾(流れ弾)が・・・・大勢の方が亡くなりました。
今も千人塚があります。
空襲り日 近所の老人(お爺ちゃんとお婆ちゃん)を預かってたので、
逃げ遅れた私達は、焼夷弾の中をくぐり公園へ、
お爺ちゃんは、大樹の陰で「ここにいてる。ほっとてくれ」
仕方ないので、お婆ちゃんを乳母車に乗せて私が押して
弟を背負った母と、公園を後にしました。
後日私が、お婆ちゃんを伏見の親戚まで送り、沢山食料を頂きました。
また、お爺ちゃんも無事だったそうです。
亡くなられた 気の毒な方達のことを 母は、
「辛い運命だけど、産まれた時に、ここまでの寿命だったと、思うしかない
公園のお爺ちゃんも寿命があったんや。
私達も、あの2人預かってなかったら、
堤防に避難して死んだかも。運命が味方してくれた」
家を焼け出された私達は、母の父の家(徳島県)に疎開しました。
疎開生活の出来ない母は、戦時中なのに帰阪。
家族で暮らし始めて・・・・8月14日。京橋の空襲。
そして終戦。「あぁ~これで もう爆撃はないね」と。母の本音です。
私は、日本は神の国。戦争に負ける筈がない。何かの間違い
国民学校を出て女学生になった、軍国少女でした。
そんな母が、 あっけなく37歳で逝きました。
戦時中の、あの時の母の言葉を思い出したものです。
豪快な母も「産まれた時、寿命は決まってた。悪い運命だった」と。
少女の私は、自分を納得させました。
元気な62歳の女性も、被爆した男性も、ここまでの寿命だったのでしょう。
人の生死が簡単に運命だの、寿命だので片付けられては悲しすぎますが、
母なら、そう言うかも。 心から、ご冥福をお祈り致します。