ミステリー作家の東野圭吾さんが7月23日、大腸がんのため亡くなりました。その訃報に接し、代表作『容疑者Xの献身』を連載した小説誌『オール讀物』の元編集長・羽鳥好之氏が、東野さんの素顔と作品の魅力を振り返った記事が印象に残りました。
● 誰も考えつかなかったトリックを
羽鳥氏は、東野さんの功績を次のように表現しています。
「100冊を超える著作を残し、累計発行部数は1億冊を優に超える大ベストセラー作家。日本のエンターテインメント小説をけん引しただけでなく、アメリカや中国をはじめ世界中に多くの読者を獲得していた東野圭吾が、この夏、忽然(こつぜん)と世を去った。」
『容疑者Xの献身』は文藝春秋発行の小説誌『オール讀物』に連載されました。当時の編集長だった羽鳥氏は、パーティー会場や銀座の酒場で東野さんと顔を合わせ、作品の感想を伝えていたそうです。そんなある日、東野さんは自信に満ちた表情でこう語りました。
「古今東西、いままで誰も考えつかなかったトリックをお見せします」
その言葉どおり、『容疑者Xの献身』は高い評価を受けます。羽鳥氏は、この作品で今度こそ直木賞を受賞してほしいと強く願っていました。その期待は担当編集者だけでなく、文藝春秋全体にも広がっていたといいます。
そして作品は見事に直木賞を受賞しました。選考会で司会を務めた羽鳥氏によれば、それまで東野作品に比較的厳しい評価をしていた選考委員も高く評価し、以前から東野作品を支持していた平岩弓枝さんは、その奥深い作品世界を絶賛したそうです。
このエピソードを知ったことで、『容疑者Xの献身』の映画版をぜひ観てみたいと思いました。
● 堤真一、絶叫にも近い悲しみと絶望を爆発
西谷弘監督による映画『容疑者Xの献身』は、天才物理学者・湯川学と天才数学者・石神哲哉の頭脳戦を描いた本格ミステリーです。緻密な謎解きに加え、登場人物それぞれの切ない人間ドラマ、そして俳優陣の高い演技力が重なり、見応えのある作品に仕上がっています。
冒頭の大規模な物理実験の映像から観客を引き込み、物語は緊張感を保ったまま進みます。そして終盤、冷静沈着だった石神を演じる堤真一さんが、絶叫にも近い悲しみと絶望を爆発させる場面は圧巻でした。完成度が非常に高く、「映画館で観ておけばよかった」と思わせる一本です。
一方で、個人的にはいくつか気になる点もありました。
まず、靖子を演じた松雪泰子さんです。美しい女優であることは間違いありませんが、劇中では「色っぽい」という表現が何度も繰り返されます。あまりに頻繁に耳にすると、「そこまでだろうか」と違和感を覚えました。
また、天才物理学者と天才数学者という二人の主人公が、そろってスマートでハンサムなのも現実味に欠けるように感じました。堤真一さんは冴えない数学教師を好演していましたが、もともとの存在感や格好良さが際立っており、「女性にまったく相手にされない男」という設定には無理があるように思えました。
● 命懸けで守ってくれる石神の思いに気づきながら
堤真一演じる石神役は、もう少し野暮ったい雰囲気の俳優でもよかったのではないでしょうか。靖子は、自分と娘を命懸けで守ってくれる石神よりも、印刷会社の社長・工藤(ダンカン)に心を寄せていきます。しかし、現実に置き換えて考えると、多くの人は石神のような人物に惹かれるのではないかと思ってしまいます。
もっとも、それは外見を重視した見方なのかもしれません。
作中の工藤は、社会的地位と経済的な余裕を備えた誠実な大人の男性として描かれています。その存在は靖子に「安定した未来」を感じさせ、ホステス時代から”富樫とは正反対の純粋な優しさ”で、傷ついた心を少しずつ癒やしていきます。
靖子が工藤に惹かれていく展開は、作品全体の切なさを際立たせる重要な要素です。自分を命懸けで守ってくれる石神の思いに気づきながらも、靖子の心は、普通に愛し合い、穏やかな未来を築けそうな工藤へ自然と傾いていきます。
その理屈は十分理解できます。それでも、個人的には「やはり堤真一さんの石神のほうに心が動くのではないか」と考えてしまいます。極端な話ですが、ダンカンと堤真一の配役を入れ替えていたら、この恋愛描写にもより説得力が生まれたのではないか――そんなことまで想像してしまいました。
参照:【東野圭吾を悼む】誰も考えつかなかったトリック──『容疑者Xの献身』の舞台裏
