朝、目を覚まして洗面所へ向かい、鏡を見る。


歯を磨き、顔を洗う。そのたびに鏡に映る自分の顔を見て、歳月の積み重ねを思い知らされます。若い頃は「今日はなかなかいい顔をしている」などと、根拠のない自信を抱いていた時期もありました。しかし今の鏡は、そんな思い込みすら許してくれません。現実を容赦なく映し出してきます。

 

もっとも、自分自身の顔にはうんざりしていても、「顔」というもの自体には強く惹かれます。映画やドラマを観る時も、登場人物の顔はどうしても気になります。美男美女かどうかというより、顔立ちや表情に惹かれないと物語に入り込めないのです。

 

また、人と話す時も、言葉以上に表情を見てしまいます。感情や体調、時にはその人の本音までも、顔には表れてしまうからです。

 

● 「猿だ。猿の笑顔だ」

太宰治の『人間失格』は、三枚の写真に写る主人公の顔についての描写から始まります。

 

幼少期の写真について、太宰はこう書いています。
「その子供の笑顔は、見れば見るほど不気味で、少しも笑っていない。両の拳を固く握りしめているからだ。人間は拳を握りながら笑えない。猿だ。猿の笑顔だ。」

 

さらに学生時代の写真では、笑顔は以前より洗練されているものの、「人間らしい温かみがない」と描かれます。どこか空虚で、生命感に欠け、作り物めいているのです。

 

そして中年期の写真になると、そこにはもはや笑顔すらありません。火鉢に手をかざして座る男の姿は、「自然に死んでいるようだ」と表現されます。顔の各部分は平凡なのに、なぜか印象がない。表情だけでなく、人間らしさそのものが抜け落ちているように描かれています。

 

『人間失格』自体は非常に面白い小説でした。ただ、当初は「ここまで自分の顔について執拗に語るとは、太宰治という人は相当な自意識の持ち主なのだな」と、半ば呆れながら読み始めた記憶があります。

 

● 醜い顔はどこにあるのか――『みにくい人』

そんなことを考えているうちに、「顔」という存在についてもっと深く知りたくなり、春日武彦の『顔面考』を読みました。精神医学や小説、マンガ、歴史、犯罪など、多様な視点から「顔」の不気味さや怪しさを論じた本で、とても読み応えがありました。


作中では、自分の容姿を極端に醜いと思い込む「醜形恐怖」や、身近な人間が別人にすり替わったと信じる「カプグラ症候群」、さらにはドッペルゲンガー現象(自分自身と瓜二つの姿をした分身を目撃する現象、またはその分身のこと)なども取り上げられています。

 

その中でも特に印象に残ったのが、「醜い顔はどこにある」という章で紹介されていた、楳図かずおの短編マンガ『みにくい人』でした。

 

物語の主人公は二人の女子高生です。
一人は美少女のミカ。もう一人は、周囲から醜い容姿を嘲笑されている土子です。対照的な二人ですが、不思議と仲が良く、いつも一緒に登下校しています。

 

土子は、自分の容姿に強い劣等感を抱いています。周囲から馬鹿にされ、自分には価値がないと思い込んでいるのです。だからこそ、美しいミカに憧れ、同時に激しい嫉妬も抱いていました。

 

ある日、駅のホームで電車を待っていた時のことです。土子は衝動的に、ミカを背後から突き飛ばしてしまいます。ミカは線路へ転落し、急ブレーキの音と悲鳴があがります。重傷を負ってミカは病院へ運ばれます。

 

しかし土子は罪を隠したまま、その間に美容整形を受けます。そして手術は成功し、彼女は見違えるほどの美少女へと生まれ変わるのでした。

 

整形後、初めて登校した朝。土子は道でミカと再会します。ミカの顔には包帯がぐるぐる巻かれていました。
「見てちょうだい……こんな顔になってしまったの」
そう言って包帯を外した彼女の顔は、事故によって無惨に潰れていました。

 

それ以降、二人は再び一緒に登下校するようになります。ただし以前とは立場が逆転していました。今や美しいのは土子であり、醜いのはミカです。

 

土子は罪悪感に苦しみます。しかもミカは、犯人が土子であることを分かっているようにも見えます。友情の前には顔の美醜など関係がないといった建前が学友たちに周知されてしまっているため、土子は今さらミカから離れることもできません。

 

物語はここから、さらに思わぬ展開に進んでいきます。

 

春日武彦は、この作品について「顔の美醜だけが絶対的な価値基準になっている世界だからこそ、かえって分かりやすい」と述べています。現実離れした設定でありながら、読者はその極端な価値観に引き込まれてしまう。そして、その単純さが、この作品を“安心して楽しめるホラー”にしているのだと説明しています。