「あんのこと」 2023年製作 日本
入江悠監督・脚本による「あんのこと」は、実際の新聞記事をもとに作られた壮絶な社会派ドラマで、非常に見応えのある作品でした。
母親からの暴力によって居場所を失い、薬物依存に苦しむ杏。10代半ばから売春を強いられ、過酷な人生を生きてきた彼女ですが、風変わりな刑事・多々羅と週刊誌記者との出会いによって、その人生が少しずつ動き始めます。
本作は第48回日本アカデミー賞で高い評価を受け、主人公・杏を演じた河合優実が最優秀主演女優賞を受賞しました。また、入江悠が優秀脚本賞、佐藤二朗が優秀助演男優賞を受賞しています。5月15日からNetflixでの配信がスタートし「映画TOP10」で3位になっています。
監督は、本作を制作した動機について次のように語っています。
「虐待や薬物依存を乗り越え、ようやく見つけたささやかな日常をコロナ禍で奪われ、自死した女性の記事を読み、『彼女がどういう人物で、何を思っていたのかを知りたい』と強く感じたことが脚本執筆の動機です」
さらに、「コロナ禍の閉塞感や人々の分断を、自分が忘れてしまう前に記録しておきたいという思いも込められています」とも述べています。
冒頭で、杏が逮捕されて取り調べを受ける場面では、多々羅刑事が突然、彼女の前でヨガを始めます。あまりにも唐突な展開に、思わず笑ってしまいました。重苦しい物語の中で、あの奇妙な空気感が強く印象に残ります。
また、杏と刑事、週刊誌記者の3人がカラオケをする場面も印象的でした。週刊誌記者を演じているのは、元SMAPの稲垣吾郎です。決して派手に歌うわけではなく、どこか素人っぽさのある歌い方なのですが、それが逆に「稲垣吾郎のカラオケを見ている」という不思議な感覚につながっていました。
一方で、河合優実は歌唱力にも定評があり、山口百恵の物真似で歌う姿なども非常に評価されています。そのため、劇中で彼女の歌声を聴ける展開になるのではと期待してしまいましたが、そこまで踏み込まれなかった点は少し残念でもありました。
物語は後半に入り、思いがけない事実が明らかになります。週刊誌記者は、「多々羅刑事が薬物更生者の自助グループを私物化し、参加女性に関係を強いている」という情報を得て、慎重に取材を進めていたのです。
佐藤二朗演じる多々羅刑事は、杏を救おうと奔走する熱意ある人物として描かれていただけに、後半で明かされるもう一つの顔には大きな衝撃を受けました。善意と支配欲が同居するような複雑さが、人間の怖さをリアルに感じさせます。
絶望の中で感情を押し殺していた杏の表情が、少しずつ救いを見出して柔らかく変化し、そして再び追い詰められて生気を失っていく――その過程を、河合優実は言葉以上の説得力で演じ切っていました。
さらに、「救う側」の人間にもまた問題や弱さ、裏切りが存在することを描き、人間の善悪両面を容赦なく浮かび上がらせています。人生の残酷な不条理を痛感させられる、非常に力のある作品でした。
