ぼんやりとYAHOOのニュース記事を読んでいたところ、見つけた記事です。約一週間前に公開されたもので、長文の記事ですが、時間を忘れて読み終えました。

タイトルは、『「おやじ何人殺しとんねん…」元日本軍兵士のDVに耐え続けた家族が見つけた“陣中日記”の真実』です。

家族にとって本当にひどい父親の話で、76歳で亡くなった際には母親が「祝電やがな。うれしいやろ。父ちゃん死んで」と言ったそうです。それも納得できる父親の行動が説明されており、その原因が戦争にあったことが両親の死後に明らかになってきます。

そして、その理由が記された父親の戦争の手記をラジオのプロデューサーに話したところ、「番組でやりましょう」と勧められ、2014年には「これが戦争だ!親父の陣中日記」というコーナーが設けられました。従軍記が朗読されて多くの反響があり、「うちも同じです。父は戦争の話を一切しませんでした」という声が多かったとのことです。

以下にその内容を抜粋しますが、興味を持たれた方は、記事のリンクから全文をお読みください。

記事は、『大久保真紀・後藤遼太『ルポ 戦争トラウマ 日本兵たちの心の傷にいま向き合う』(朝日新書)の一部を抜粋・編集したものです』とのことなので、私は今度本屋に行ってその本も購入してみたいと思いました。

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● 父の「女」が家に来ると 母と2人で寒空の下へ
あれは忘れもせん。小学5年生の時でした。

正月と盆しか休みがない働き者の母に、父が「何が何でも今日は早めに帰ってこい」と言いました。夕方急いで帰ってきた母がご飯を作ると、父の「女」がやって来ました。2人が食事するのを、母と私は横で見ていました。酒を飲んだ父は「おい、布団敷け」と命令します。母が6畳間に布団の用意をすると、父は母にこう言いました。「お前、いまから征平連れて2時間、風呂行ってこい。時間前に帰ってきたら、承知せえへんぞ」

仕方がないから、家の近くの製材所の材木の上に母と並んで腰掛けて、寒空の下で待ちました。

私は母に思わず言いました。「お母ちゃん、なんで別れへんの。僕ら兄弟、みんなお母ちゃんについていく。あんな怖い怖いお父ちゃんと、なんで一緒にいんの」と。

母の答えは、こうでした。「お父ちゃんは必ず変わらはる。戦争行く前の優しいお父ちゃんに戻らはる。せやから、せやから、それまで辛抱したげような」

● 父は復職するも問題を起こす
父・桑原栄は1907年、広島県で生まれました。10代の頃に京都に出て、警察官になりました。勤務する派出所の前に住んでいたのが、母・フミです。母は小児麻痺で手足が不自由でした。父が見初めて「お嬢さんを下さい」と祖母に言うと、「この子は結婚できる体じゃない」と断られました。それでも「姿形はどうでもええ、優しい人柄にほれたんです」と食い下がったそうです。

1938年に父は陸軍兵士として中国へ出征し、1年後に傷病兵として帰ってきました。私が生まれたのは、その4年半後です。

父は復員後、警察に復職しました。ところが、人が変わったように荒くれ者になってしまっていたんです。まだ戦争が終わる前ですが、巡査だった父が、外国人たちのばくち現場に乗り込んだ時のことです。逃げる人たちを近くの河原まで追いかけ、持っていたサーベルでひとりの片腕を背後から切り落としたそうです。新聞沙汰になりました。

この件で山奥に左遷され、警察を辞めました。

父は毎晩、安物の焼酎をあおりました。飲むと、どんどん目がすわってくる。母と私ら3兄弟は正座してそんな父をただ見ている。ラジオだけが流れていました。緊張の時間です。

「なんや、このまずい飯は!食えるかあ!」と母の顔にみそ汁を投げつけ、ちゃぶ台をひっくり返す。母はたまらず、「堪忍しておくれやす」と悲鳴を上げます。「貴様ぁ」と叫びながら子どもたちを殴るわ蹴るわ、手がつけられない暴れようでした。

中学生になり体も大きくなると、私ら兄弟は殴られることはなくなりました。ただ、母だけは別でした。ボコボコにされて「お岩さん」のようになった母の顔は、年老いるまで何度見たことか。

● 父の死で胸をなで下ろし 母は祝電と言った
父は76歳で亡くなりました。布団屋の仕事で配達中にバイクで転び、その2週間後のことでした。内臓もボロボロだったようです。「ようやく死んでくれたか、もうええわ――」。当時はそれしか思いませんでしたね。

葬式の前でバタバタしている時に、母が「征平、祝電どこいった?」と聞いてきました。「いやいやお母ちゃん、祝電ちゃう。弔電やで」と思わずツッコんだら、「祝電やがな。うれしいやろ。父ちゃん死んで」と言うんです。確かに、誰も泣いていませんでした。

「お母ちゃん、お父ちゃん死んでやっと安心しよったな」「ついに本心出たな」と兄弟で大笑いしました。ほんまに、なんでもっと早く言わなかったのかなあ。母は「お父ちゃんは必ず変わる」と最後まで言い続けていましたから。

2012年、その母が亡くなりました。遺品を整理していたら、1冊の本が出てきました。表紙に「陣中日記桑原栄著」と書いてある。父は生前、戦争の話は全くしませんでした。だから、父の従軍の記録を見てびっくりしてしまった。

● 戦争での体験を 陣中日記に残していた
200ページほどの本でした。一気に読みました。後にも先にも、あんなに速く読んだ本はありません。

おやじ、何人殺しとんねん……。こんな、とんでもない経験しとったのか。苦労してたんやなぁ、と。もう、ショックでした。

揚子江で船から下りた瞬間に銃撃され、さっきまで隣で話していた戦友が鉄かぶとを撃ち抜かれて流れていったそうです。民家に押し入り、水がめに隠れていた中国人を引きずり出した。上官に「桑原やれ」と命じられたが弾が出ない。ほっとしていたら、「弾が出ないなら銃剣で刺せ」と。その時の手の感触が、書いてありました。

強烈だったのは、中国軍のトーチカ(コンクリート製防御用陣地)を攻撃した時の体験談でした。山の上にあるトーチカに向けて攻め上っていくのですが、上からはバンバン撃たれる。弾も水も補給がないまま攻撃を続け、味方もほとんど死んでしまった。ようやく相手の陣地に飛び込んだら、中国兵が8人か10人か、死んでいたそうです。足を鉄の鎖につながれて逃げられない状態で。

陣中日記は私の人生の転機でした。「最低のおやじ」と、戦争トラウマがつながった。あの本に出合わなければ、いまも許していないでしょう。兄にも「こんなこと書いとるで」と教えました。仰天していましたよ。

母は生前、言っていました。「戦争で死んでしまった兵隊やその家族は可哀想や」「生きて復員した兵士も、その家族も地獄や。戦争いうのは、生きるも死ぬも地獄や」と。ほんま、その通りですわ。

参照:「おやじ何人殺しとんねん…」元日本軍兵士のDVに耐え続けた家族が見つけた“陣中日記”