薬物大量投与で入院患者を数百人殺害したと言われる実在の事件を元にした「グッド・ナース」。映画の中では、犯人のチャーリーは犯罪を犯した理由を最後まで決して語らなかった。

では、実際の事件と現在も刑務所に入っているというチャールズ・カレンは、どのような人物だったのかがとても気になったので、ここに記していきたいと思います。

チャールズ・エドモンド・カレンは、アメリカの連続殺人犯で、1960年生まれの現在62歳。彼は終身刑でペンシルベニア州の刑務所に収監されている。


カレンは、被害者の名前を覚えていないものの、殺人行為の詳細だけはよく覚えていた。専門家らは、カレンの犠牲者は最終的に400人にも及ぶ可能性があると推定している。その場合、彼は史上最悪の被害者数を出したシリアルキラー(連続殺人犯)という事になる。
                 
● 母親の死で「うちのめされた」
チャールズ・エドモンド・カレンは、1960年2月22日、アメリカ・ニュージャージー州ウェスト・オレンジで生まれた。父親はバスの運転手で、カレンが生まれた時にはすでに58歳であった。その父親は彼が生まれてわずか7ヶ月後に死んでしまう。

カレンは、子供時代について惨めだったと振り返っており、姉妹のボーイフレンドと彼の学友たちから常にいじめられていたと述べている。

しかも、他の2人の兄弟たちも成人くらいに死去しており、幼いカレンはこれらの死に相当なショックを受けた。

9歳の時、薬品箱に入っていた化学薬品を飲み、自殺を試みている。看護師として働いていたカレンは後に、自分が働いていた病院から薬を盗んで飲んで死ぬことについて空想したと主張している。この後、実に20回に及ぶ自殺未遂を行っている。

1977年12月6日、高校1年生の時にカレンの姉が運転する車が事故を起こし、母親が死亡してしまう。カレンは母親の死で「うちのめされた」と語り、病院が遺体を家に戻さず火葬したことに対して憤慨したという。この母親の死にショックを受け、高校を中退している。

1978年4月、海軍に入隊した。カレンは、潜水艦の乗組員が2か月の間密閉された空間で過ごすのに必要な基礎訓練と厳格な心理検査に合格している。海軍では潜水艦の乗組員となる。

水兵としてのカレンは優秀そのもので、伍長にまで昇進した。

しかし、この水兵時代から精神が不安定になってきていた。将校は、カレンが制服ではなく外科用マスク、手袋と手術用ガウンを身に着けてミサイルの制御席に座っているのを発見した。彼のこの行動に対して懲戒処分を受けたが、なぜそうした行為をしたのか説明できなかった。

1984年3月30日、海軍を除隊したが、海軍時代に7回もの自殺未遂による為、医学的による名誉除籍であった。

除隊後間もなく、ニュージャージー州モントクレアの マウンテンサイド病院看護学校に入学した。彼はクラスの学級委員長に選出され、1987年に卒業。リヴィングストンにあるセントバーナバスメディカルセンターの火傷チームで仕事を始めた。この頃、彼はエイドリアン・バウムと出会い結婚する。

● こそこそする男の看護師が注射しに来る
1988年6月11日、カレンによる初めての殺人が起こる (あくまでも本人が言ってることであり、もっと前にやっている可能性も高い) 。

セント・バルナバ医療センターで働いている時、判事のジョン・イェンゴが入院していたのだが、カレンはイェンゴに致死量の薬物を注射し、殺害する。

そして、この殺人をきっかけに、エイズ患者を含む数人の患者を殺害した (正式な人数は本人も詳しく覚えていなかった) 。

不審死が相次いだ為、病院の当局が誰が点滴袋に混入させたのかを調査し始めると、彼は1992年1月に病院を辞めた。調査の結果、おそらくカレンの手によって行われたものと判断され、数十人の患者が被害をうけ死亡したことが明らかになった。

同年2月、ニュージャージー州のフィリップスバーグにあるウォーレン病院に勤務する。そこで彼は心臓薬ジゴキシンを過剰投与し、3人の高齢女性を殺害した。

ある女性患者は「自分の眠っている間に、こそこそする男の看護師が注射しに来る」と言ったが、病院側も患者の家族すらも相手にしなかった。結果、その女性患者は死亡してしまう。

カレンは結婚していたのだが、翌年の1993年1月、妻アドリーエンが離婚を要求し、離婚用紙に書いた。離婚の原因はカレンによる暴力だと言われていたが、実際は金銭問題であった。

その証拠に、家庭内暴力が原因とされた離婚調停だった為、一時妻への接近禁止命令が出たのだが、後にその命令は取り下げられている。

その後、離婚したカレンは看護師を辞めたいと周囲に漏らすようになる。しかし、仕事を辞めたいが裁判からの命令で、養育費を支払い続けなければならず、結局、その後も働かなければならず、結果、この事が死人を多く出すことになる。

1993年3月、とある女性を好きになり、その女性につきまとい始める。カレンはその女性僚の家に不法侵入した。女性と幼い息子が寝ていたが、目覚めさせることなく立ち去った。それから彼はその女性をストーキングし始め、その女性はついに彼を訴え、カレンは逮捕され1年間の執行猶予付きで釈放される。

逮捕された後、再び自殺未遂を起こし、カレンは仕事を休み、精神病院でうつ病と診断され、治療を受けている。彼は2ヶ月仕事を休み、2つの精神施設でうつ病の治療を受けたが、1993年末までにさらに2回自殺を試みた。

その9月、91歳の癌患者が担当の看護師ではないカレンが彼女の部屋に入って注射を受けたと話し、翌日その患者は死亡した。彼女の息子はその死が自然死ではないと抗議し、ウォーレン病院はカレンと他数人の看護師に嘘発見器テストを実施した。彼はその検査にパスする。次の春まで同病院で働き続けた。

同年12月、カレンはウォーレン病院を辞め、ニュージャージー州フレミントンのハンタードン医療センターで働き始める。ここでは3年間、集中治療室と心臓病患者看護チームで働く。

● 少なくとも40人は殺害した
このハンタードン医療に働き始めた最初の2年間は、誰も殺す事はなかったが、1996年9月までに5人の患者を殺害した。
なぜ、当初の2年間は誰も殺さず、1996年に入ってから殺人を始めたのかはわからない。

ハンタードン医療センターを辞職し、その後、ニュージャージー州モリスタウンのモリスタウン記念病院で働くが、1997年8月に不適任として解雇されている。

この頃のカレンの異常性は顕著で、真夜中に猫を追って叫んだり、独り言を言いながら通行人を睨んだりしていた。

1998年2月、ペンシルバニア州アレンタウンのリバティ看護センターで働き始める。だが、同年10月、カレンは注射器を持って患者の部屋に入る所を目撃された後に解雇される。患者は腕を骨折させられたが、注射を受けること免れた。彼はリバティ病院で患者の死を引き起こしたが、それは別の看護師の責任とされた。
 

同年11月から翌年1999年3月まで、ペンシルバニア州イーストンにあるイーストン病院で働き始める。

その間の1998年12月30日、ジゴキシンで患者を殺害。検死官の血液検査で、患者の血液中に致死量のジゴキシンが含まれていることが判明したが、イーストン病院内での内部調査では結論が出なかった。

しかし、カレンはイーストン病院をクビになる。

1999年3月、ペンシルバニア州アレンタウンにあるリーハイ・バレー病院の火傷治療チームで働き始める。このリーハイ・バレー病院で、患者1人を殺害し、もう1人も殺害しようとしたがこちらは未遂になっている。

1999年4月、リーハイ・バレー病院を退職し、ペンシルバニア州ベツレヘムのセント・ルーク病院で、心臓チームの一員として働き始める。このセント・ルーク病院では3年間で、5人の患者を殺害。2人は未遂に終わってる。


2000年1月11日に、彼は再び一酸化炭素中毒による自殺を試み、浴槽の中で炭を焼いた。カレンの隣人が、煙の臭いがしたため消防署と警察に通報し、病院と精神科施設に連れて行かれたが、翌日帰宅した。

カレンがセントルーク病院で患者を殺害していたと疑う人は誰もいなかったが、同僚がゴミ箱の中から薬瓶を見つけたことにより状況が一変した。その薬は病院の外では価値がなく、乱用されるようなものではなかったので、逆に不審に思われることになった。調査の結果、彼が薬を飲んだことが判明し、病院側から自己都合で辞任して中立的な推薦を与えるか、解雇のどちらかを提案される。

2002年6月、カレンは解雇を選択する。

同年9月、今度はニュージャージー州サマヴィルのサマセット医療センターで働き始める。この頃に地元の女性とデートを始めたが、彼のうつ病は悪化した。

この職場ではERでの勤務となるが、ここでは8人の患者を殺害し、1人は未遂に終わった。

2003年6月18日、カレンは患者のフィリップ・グレガーを殺害しようとするが、グレガーはなかなか死なず、退院してから6ヶ月後に自然死した。

同年7月、少なくとも4人が不審死した為、誰かが過度の薬を投与している疑いがあるとして、ニュージャージー薬科機構の医療部長がサマセット医療センターに忠告するが、当局は10月まで報告を延期していた。

この10月までに5人の患者を殺し、もう1人も殺害しようとして未遂に終わった。

その後まもなく、サマセットはカレンの不正行為を示す手がかりを見つけた。 病院のコンピュータシステムは、カレンが担当外の患者の記録にアクセスしていたことを示していた。また、担当でない患者の部屋を訪れる姿を同僚が目撃し、コンピューター管理された薬品管理機は、彼の患者には処方されていな薬を取り出していたことを示していた。

同年10月、カレンが働き始めてからの相次ぐ患者の死亡との因果関係を探る調査が始まった。

彼の最後の犠牲者となる患者が低血糖で死亡したとき、病院はついにニュージャージー州警察に通報した。州当局は、8月の時点でカレンによる致命的でなかったがインスリン過量投与をしていた事件の報告を怠ったとして病院を非難した。彼の雇用歴を
調査したところ、以前の死への彼の関与について過去の疑いが明らかになった。サマセットは2003年10月31日に表向き履歴書に嘘を書いたという件で解雇した。

同年12月12日、ついに逮捕される。

罪状は殺人1件及び殺人未遂1件の嫌疑であった。

2003年12月14日、カレンは1件の殺人未遂を認めたが、後に16年の勤務の中で少なくとも40人は殺害したと自供する。しかし、裏付けがとれたのは29人だった。

カレンは呼吸困難に陥り「コード・ブルー」と表示された患者に対し、コードに接続されてる事から救ってあげたのだと主張した。苦しみながら命を引き伸ばす事に耐えられなかったとも述べた。自分が過量投与をしたことで、患者の苦痛を終わらせ、病院職員が彼らを非人道的に扱うことを防いだのだと主張した。しかしながら、彼の犠牲者は全員が末期患者などではなく、ゴールのように、回復途上の患者たちもいた。

看護師のリン・テスターは、警察のインタビューで犠牲者の多くを「回復しつつある人々」と表現している。

● 元恋人は藁をもすがる思い
2005年8月、司法取引の一部として、当局が死刑を要求しない代わりに、捜査に全面的に協力することで合意した。しかし裁判の出廷を拒み続けた為、正式な判決は下されないままだった。

2006年3月2日、ニュージャージー州のアームストロング判事から 11 回の終身刑を言い渡された。

2388年まで仮釈放の資格はない。2006年3月10日、カレンは判決公聴会のためにリーハイ郡のウィリアム H. プラット判事の法廷に連れてこられた。

裁判官に腹を立てた彼は、ウィリアム H. プラット判事がカレンに布とダクトテープで猿轡をかませるまで、30分間「あなたの名誉、あなたは辞任する必要があります」と繰り返し続けました.。

猿轡かませた後も、そのフレーズを繰り返そうとし続けました。その公聴会で、ウィリアム H. プラット判事は彼にさらに6回の終身刑を言い渡している。

そんな時、カレンのもとに1通の手紙が届く。

送り主はカレンの元恋人で、彼女はカレンの子供 (キャサリン) を生んでいた。元恋人の子供 (名前はアーニーで、カレンの子供ではない) が、腎臓が悪化し、人工透析を受けていたのだが、更に悪化してしまい、死を待っていた。

そんな時、アーニーの特殊な血液型と彼が一緒なことをキャサリンから聞いており、元恋人は藁をもすがる思いで、カレンに手紙を書いたのだった。

カレンは刑務所を訪れる牧師に頼み、自分の腎臓が適合するか検査することになった。結果、適合することになり、移植手術可能となったのだが、裁判所からの許可が下りなかった。その理由は「判決がまだ出ていない」からであった。

カレンは決断し、今まで拒否し続けた裁判に臨むことになる。法廷内は彼が殺害した遺族の罵声が飛び交った。

2006年3月、29人の殺人と6人の殺人未遂で18回の終身刑が言い渡された。それと同時に、移植手術の許可もおりた。

そして、同年8月、ニュージャージー州セント・フランシス病院で、厳重な警備が敷かれる中、カレンの腎臓摘出が始まった。混乱をさける為、移植手術は極秘に進められ、摘出された腎臓はニューヨーク州ロングアイランド病院に空輸された。

現在、彼はニュージャージーのトレントンにあるニュージャージー州刑務所に服役している。

彼の人生を振り返ってみると、患者の殺害には何度も成功しているのに、自殺に関しては何度も何度も失敗している。まるで生き残る余地は必ず残しておいて、自殺のポーズだけとっているかのようでもある。この他殺と自殺の繰り返しの索漠とした人生の中で、元恋人の子供の為に自分の腎臓を移植してあげたことだけが彼の人生に花を添えているようにも思える。

参照:チャールズ・カレン 《ウィキペディア》
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