「ランボー ラスト・ブラッド」2020年 アメリカ 原題:Rambo: Last Blood

 

「ランボー観てくるよ。」と、言って出かけようとすると
「え?ランボーって、スターロンの?」と、妻がきいてくる。
「そうだよ。」
「まだ、ランボ-やるの?だってもうお爺ちゃんでしょ?」

あ・・・・・今、まさに観に行こうする直前にテンションが下がる一番のポイントをついてくる。
「でも、映画の中で一番元気のいい74歳のムキムキジィちゃんだから」

そう言い放って、エイドリアン・グランバーグ 監督の「ランボー ラスト・ブラッド」を観るために映画館にむかったものの、やはり若干の不安。『本人ではなくてスタントマン活用だらけのランボーだったら、面白くないな。』と、つまらない心配をしながら映画館に入ってみれば、劇場はガラガラで10人くらいしか入っていない。
 

ぼくがコロナで映画館がみんな締まってしまう直前に観た「ジュディ 虹の彼方に」の時は、広い劇場にぼく一人しかいなかったので、その時から比べるとまあ、回復したほうなのか? 『しかしなんでみんなそんなにコロナ騒ぎの宗教にお行儀よく洗脳されてしまうのか?』と、腹をたててみたがそういう自分もマスクはしてて、マスクで痛くなった耳をうっとうしく思いながら、『コロナ狂』、もとい『コロナ教』に従っていることを再認識せざる得ない。
 

ランボーは亡き父が残した牧場で静かに生活している。
昔からの友達マリアと、彼女の孫娘ガブリエラと暮らしている。孫娘は学生でランボーは実の娘のようにかわいがっている。


孫娘のお父さんは、突然失踪し、連絡が取れなくなっていた。そのお父さんがメキシコに住んでいるという情報を友達から聞いて、ランボーやマリアの反対も聞かず友達と一緒にたずねに行く。しかしお父さんは別の女性と暮らしていて、邪険に扱われた孫娘はがっかりしながら帰る。帰りに寄ったお店で娘は人身売買カルテルにさらわれてしまう。そこで、犯され薬漬けにされ、ボロボロになった状態のところをランボーが助けに行く。


娘の復讐に立ち上がったランボーは、組織丸ごと壊滅状態にするまで暴れまくる。
殺し方が一つ一つ残酷で、いきなり足を切断したり、あきらかに仕留めたのに、さらに銃弾を体に何発も打ち込んだりする。弓あり、落とし穴の串刺しあり、爆弾あり、大型ナイフあり・・・・様々なパターンでを殺しまくる。まるで殺人マシーンとなったランボーのアクション・ホラー映画を見せられているようだ。
 

スタローンは、このようなヴァイオレンスアクションにしたことに関して、インタビューではこう語っている。
「ハリウッド流のフェイクな恐怖にしたくなかったからさ。本物の警察官が現場で遭遇することは、アクション映画で見るものより、ずっと、ずっと残酷。銃で顔を撃たれた同僚の顔を見たりするんだ。僕は戦いというものがどれほど恐ろしいのかを見せたかった。人がなぜそのトラウマを忘れられないのかを伝えたいんだよ。

それが観客にとって辛すぎるかもしれないと認識はしている。でも、『ランボー』を見にくる人なら、覚悟しているのではないかな。たった一発の弾丸で人が死ぬようなシーンがよく映画に出てくるが、実際には9発は必要なんだよ。死ぬまいともがいている相手を殺すのは簡単じゃない。僕は戦争を戦争として描いたまで」

 

しかし復讐も度を超すと、それが正義のためなのはわかるのだが、人間の生死が軽く描かれすぎているようで、居心地が悪くなってくる。一人の娘の復讐の為に200人くらいランボーは人を殺しているのではなかろうか?

そこは目をつぶって純粋に、『ランボーカッコイイ!スカっとした!』と、楽しむための映画なのだろう。実際に観ている時はそんなノリで観ていたのだが疑問がわいてくる。映画はよくよく考えれば内容が現実離れしすぎてて、深みがない。シルベスター・スタローンの元気さは確認でき、自分もパワーをもらっているのだけれど、後で映画の空虚さがジワジワと染みてくる。


エンディングに若かりし頃の一番輝いていたころのランボーが出てくる。シルベスター・スタローンは、本当に見事な体をしていて逞しい。とても懐かしかった。エンディングに刺激されたわけではないけれど、「ランボー ラスト・ブラッド」での違和感の理由を知る意味でも、ランボーの一作目をもう一度、鑑賞したいと思った。