◎ 「猿の惑星:聖戦記(グレート・ウォー)」2017年 アメリカ
原題:War for the Planet of the Apes
監督:マット・リーブス
出演者:アンディ・サーキス、ウッディ・ハレルソン、スティーブ・ザーン
今は亡き、ぼくのおじいちゃんはぼくが物心ついたときによく映画館に連れ
ていってくれた。それはありがたいのだけれど、つれていってくれる映画は
ことごとくヤクザ映画だった。
そんなヤクザ映画ばっかり連れられているぼくを不憫に思ったのか、親戚
の人が僕にとって初めての洋画、「猿の惑星」に連れて行ってくれた。
小学2,3年だったぼくにとって、SF的な映画といえば、コジラとかミニラ、
モスラなどの怪獣映画しか観ていなかった。その怪獣映画の規模と比べて、
あきらかにスケールがとてつもなく大きく感じられた。、
猿と人間の立場が逆転し、猿に檻の中に入れられ、人間が鎖でつながれ、
猿にホースで水をかけられるなどの人間と動物の立場の逆転した発想に
も驚かされた。
映画を見てその世界に浸りこんだぼくは、映画館を出たら『道を歩いている
人が、みんな猿になってたらどうしよう?』などといらぬ心配をしたものだ。
その衝撃があったので、タイトルに「猿の惑星」とつくと、いまだに気になって
素通りできなくなる。というわけで、『猿の惑星: 聖戦記』を観に行った。
オープニング場面は「猿」対「人間」の戦いから始まる。
カリスマ的な主人公の猿・シーザーは、戦いの場で捕らえた人間を殺さず
情けをかけてそのまま解放してあげる。そこで人間が『猿は野蛮ではない』
ということを読み取ってくれると考えたのだ。
しかし、人間はそのシーザーの甘さを嘲笑うかのように、後から再度、攻撃
をしかけシーザーの家族を殺してしまう。
復讐を誓ったシーザーは、自分の一族を離れて、数名の仲間と共に、雄大な
自然の風景を背に、人間への復讐戦の旅に出る。
最初の「人間」対「猿」の戦いの場面からひきつけられた。暗闇で光るレーザー
光線銃のレーザーの光が交差する場面が綺麗でもあり、同時に未来的な
逃れられない戦いを感じさせ、怖さもある。
ストリーの最後のほうで、雪崩もでてくるがこれも全ての愚かな争いを消し
去るような効果をもっていた。
謎の美少女ノバも、出てくる。男ばっかりのムサイ光景に、いちりんの花を
添えられたような効果を持っていた。
但し、不満点が一個。娘のノバはたった一人の肉親を猿に殺されたのに、
無条件に強い恨みも持たずにシーザーたちについていく。その話しの流れ
にぼくは不自然さを感じた。あんなに単純に、猿の昔からの仲間のごとく
同行はないのではないか・・・・・・?
と、思った。
シーザーが復讐の為に人間を探しているうちに、猿が大勢、人間にとらわ
れて強制労働をさせられている現実を知る。人間に、戦争相手が攻めて
きても簡単に侵略できないように、壁を作るという名目で猿が奴隷として働か
されている。その場面が「戦場にかける橋」という映画と似ていて、つい想い
だしてしまった。
猿の惑星に関しては、町山智弘が書いた「<映画の見方>がわかる本」と
いう中に16ページさいて、詳しく説明している。
その中で第1作の映画の原作者であるフランスの作家、「ピエール・ブール」
の話を書いている。彼はビルマで大規模農園を経営していた。第二次世界
大戦で日本軍がビルマを占領すると、捕虜として強制労働キャンプに送られ、
家畜以下の扱いを受けたという。
その時の体験を描いた小説「戦場にかける橋」は1957年に映画化された。
「猿の惑星」も、農場でアジア人を使っていた作者のプールが日本人にこき
使われるという立場の逆転の経験を元に描いている。なぜなら西洋では昔
からアジア人を「猿」と呼んでさげすんできたからだ。
という事実を知り、複雑な気持ちになった。
日本人は猿(=動物)か!? 第一作目の画期的な作品は、「人間」対「猿」
ではなく、「人間」対「野蛮で動物的なアジアの日本人」ということになって
しまうではないか。
ところで、話は元にもどり、猿の「強制労働」の場面は意図的に「戦場にかけ
る橋」をイメージさせ、1作目の猿の惑星の原作者に対するオマージュになっ
ているのかもしれない。
他にも猿が馬にまたがって駆け抜けるところは、クリント・イーストウッドが
監督した西部劇の「アウトロー」をモデルにしたとの町山智浩の説もあり、
今回の9作目の猿の惑星は、いろんな意味が1本の映画に込められている。
ひょっとすると、創り手の熱意も感じられ、まだまだ客が入りそうなので、
「猿の惑星」の10本目もありえるのかも?
参照:映画の見方がわかる本―『2001年宇宙の旅』から『未知との遭遇』まで (映画秘宝COLLECTION)
