「平田と結婚したいと仙台と東大阪の市役所に婚姻届の用紙を取りにいった
こともありますが、逃亡中の身ではとても結婚などできないと2度とも断念
しました。平田も同じ気持ちだったと思います。」

 

涙ながらにそう証言したのは、オウム真理教元幹部の平田信(まこと)被告
をかくまったとして、犯人蔵匿(ぞうとく)などの罪で起訴された元信者、
斎藤明美被告(49)。

 

3月6日、東京地方裁判所で斎藤被告の初公判が開かれた。

と、いう出だしで、フライデー3月23日号に斎藤明美の記事が掲載されて
いる。

斎藤明美の記事は、二人が元オウム真理教の信者であることを意識しないと、
単に『憐れみを誘う不運な女の物語』に感じられてしまう。

 


むぅびぃ・とりっぷ-斉藤明美
 

● メガネの美人
それに、彼女の写真を見ると綺麗であるし、なおさら同情してしまいかねない。2ちゃんねるでもこんなふうに彼女の容姿を書いている。

 

・今時こんなメガネの美人いないな
・嫁は美人で自分の為に働いてくれる
 自分(平田信)はニート
 まさに夢の世界だな

・やっぱ女って綺麗だとあんまり疑われないんだろうな
 逃亡には女いないときついな

 

しかし、いっしょに逃げた平田信はオウム真理教の元幹部だった男。そこの背景をすっとばすわけにはいかないだろう。たとえば、オウム真理教の起こした地下鉄サリン事件。

 

1995年(平成7年)3月20日午前8時ごろ、東京都内の地下鉄車内で、化学兵器として使用される神経ガスサリンが散布され、乗客や駅員ら13人が死亡した。負傷者数は約6,300人。

日本において、当時戦後最大級の無差別殺人行為であるとともに1994年(平成6年)に発生したテロ事件である松本サリン事件に続き、大都市で一般市民に対して化学兵器が使用された史上初のテロ事件として、全世界に衝撃を与えた。また世界中の治安関係者を震撼させた。

 

その世界中び衝撃を与えたオウム真理教の元幹部。その教団が行った行為はその都度、思い出す必要があるはずだ。

 

● 17年の逃亡生活
斎藤明美は法廷で起訴事実をすべて認めたうえで、平田信との17年近くにおよぶ逃亡生活を明らかにしはじめた。

 

1995年3月の地下鉄サリン事件後に警察による教団への強制捜査が始まる中、斎藤は平田から「教団から出たほうがいい。一緒に逃げよう」と求められた。彼女はかねてから尊敬していた平田に従おうと、行動をともにすることにした」と、話した。

 

東北地方のビジネスホテルやウィークリーマンション、温泉旅館などを転々としながら逃亡生活をするうちに、「尊敬が愛情に変わり」、二人は男女の関係になった。当時斎藤は、精神的に不安定だった平田被告を、自然と「抱きしめてあげたい」という気持ちになったという。

 

一時は仙台市内で「山口今日子」の偽名で住み込み寮付きの料亭に就職した。96年2月に上京して友人を尋ねた際に、警察官の尾行に気づく。すぐさま、平田とともに夜行バスで大阪に逃亡した。

 

ところで、ぼくはこの『「山口今日子」の偽名で住み込み寮付きの料亭に就職した』というところが、とてもひっかかった。本名を語らずとも、普通に就職して働いていけるというのは問題ではなかろうか?このアバウトな身元照会のゆるやかさが、犯罪者の逃亡の手助けになってしまっている。

 

斎藤明美は大阪市では喫茶店で仕事を得たが、写真週刊誌に平田の逃亡を支援する人物として自らの写真が掲載され、発覚を恐れて再び逃亡。1997年からは「吉川祥子」の偽名で大阪の整骨院で働くようになる。以後、平田が昨年の大晦日の晩に警察に出頭するまで東大阪市内で暮らし始めたという。

 

「食事は私が買ったり、勤め先の整骨院の患者がくれるものを持って帰ったりして一緒に食べていました。衣服も私が買っていました」と室内にこもりきりの平田被告を「『なんとしても支えたい』の一念で」世話をしていたのだ。

 

検察官の「今でも平田に逢いたい?」との質問に斎藤明美は「はい」と答えるなど最後まで平田への愛情を口にし続けた。


参照:Internet FRIDAY