ナンシー関の本は”何か言いたくなるような、変にもどかしいタレント”
に、遠慮なくはっきり言ってくれるのがいい。基本、おべっかは言わな
い。自分のスタンスがはっきりしている。


たとえば、『ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳にはさもう
100』という本では、片岡鶴太郎に関して、1994年にこのような
ことを書いている。


ここ数年間、ずっと「脱・お笑」いのあさましさみたいなものを全身に
漂わせていた鶴太郎だが、ついにそれを現実としてしまった。先日、
ひとつだけ残っていたお笑い的アイデンティティーの番組「笑って
いいとも!」を切ったことで、鶴太郎はお笑いから完全撤退したこと
になった。


どうして鶴太郎はお笑いから脱却することをそんなにも急いだのか。


鶴太郎は、昔のVTRで自分の巣立たを見せられることを、ものすごく
嫌がる。その嫌がり方は他のタレントなどが見せる「一種、甘酸っぱい
こっぱずかしさに居心地の悪さを感じる」というのとはちょっと違う。
本当に心底嫌そうなのだ。VTRの中の昔の自分を憎悪しているように
さえ、私には見える。


かっこいい自分が好き、かっこ悪い自分は嫌いという、ものすごく
単純なナルシズム。そのうえ、かっこいい、悪いの基準も、通俗的な
ステレオタイプの域を出ない。


しかし、というか、そのうえかっこ悪いところを笑ってもらうというのが

鶴太郎のお笑いの基本スタイルだったのだから、お笑いのフィールド

に生きる限り「成功」と「ナルシズムの満足」は両立し得ないのである。

だから一刻も早くフィールドを変えたかったのだろう。


鶴太郎は自分の思う「かっこいい」を、もう何の遠慮もなくつき進む。
他人が「ちょっとちがうんじゃない」などと言っても耳を貸さない。
耳を貸さずに突き進むこともまたかっこいいことだから。

さよなら鶴太郎。


長々と引用してしまったが、ここで書いたナンシー関の想いは、今でも
自分の鶴太郎に対する想いとピッタンコ重なる。

アダルトビデオの監督、「村西とおる」をまねてパンツいっちょうで
カメラをかついだ鶴太郎のお笑いなんかは、けっこう面白くて好きだっ
たんだけど・・・・。


あの、平凡で面白みのない絵を描き続けて、芸術っぽい道を生きること
を選択してしまったのは、本当に残念なことだ。

すこし、鶴太郎の話に脱線してしまった。
もとい。


ナンシー関といえば、消しゴムで作ったタレントの顔も手作りの
味があっていい。けっこうシンプルな版画なのに、驚くほど似ている
場合がある。


ところで、タレントに関して、コラムで物を言う人はたくさんいるの
に、それをまとめた本は少ない。もう少しあってもよさそうなもの
なのに。

その意味でもタレントに関して書いた本が未だに再発行されている、
ナンシー関の本は貴重だ。


ところで、ぼくはナンシー関の文章をしばらく男が書いたものだと
思って読んでいた。文章感覚が男の感覚に限りなく近い。
それと、彼女の外観。ナンシー関は、けっこうオデブな女の人である
ことを知って、驚いたものだ。

もし彼女が生きていたら、「ナンシー関とマツコデラックスの対談」、
なんというのも面白かったかもしれない。