志村有弘の「戦前の猟奇残虐事件簿」という本には実録犯罪読み物が、
8編入っている。その中で、はまってしまった1編があり、タイトル
は『淫殺魔「吹上佐太郎」』、著者は黒岩姫太郎。
この作品があまりに良かったので、他にも黒岩姫太郎の作品を読みた
いと思って検索をかけてみたのだが、1ページぐらいしかまともな
情報が出てこない。それも、彼の著作に関する感想などは一つもなく
雑誌「探偵実話」のタイトルの著者として引っかかるだけなのだ。
これでは、情報不足だ。もっと黒岩姫太郎の事を知りたいものだ。
ところで、その『淫殺魔「吹上佐太郎」』という作品だが、それはこ
んな文章から始まる。
むかし、吹上(ふきあげ)佐太郎という稀代の色摩が逮捕されたことが
あった。
その吹上佐太郎を調べた小暮刑事は、彼があまりにも異常な人物であっ
たので、彼のことを死ぬまで忘れることができなかったという。
そしてその主人公である吹上佐太郎は、捕まった時に思わぬことから、
自白を始めるのだ。それまで、誰が取り調べても貝のように口を閉じて
物を言わなかったのに。
そこが、この短編が作品として輝いていた部分だ。
小暮刑事は、朝、出勤して佐太郎を留置場から出して、人気のない取調べ
室に連れていった。すると、どういうわけか、刑事と机をへだてて椅子
に腰を下ろした佐太郎が急に震えだした。
「どうした?」小暮刑事は不審そうに声をかけた。
「こ、この部屋の匂いが、・・・・・・・・・」
「なに? この部屋の匂い?」
「私が可愛がった女の中に、こういう匂いがしていた女がいたんです」
それは小暮刑事の洋服から発している匂いであった。それは前橋の匂い
なのだ。
明治維新のとき、急激な政変で士族は路頭に迷ったが、前橋の藩士は、
この地方の火山灰が桑の葉の育成に適していて昔から養蚕が盛んなの
に目をつけた。
資本金を持ち寄って製糸工場を造った。この製糸業の歴史が今も続いて
いるのが前橋だった。
前橋は繭(まゆ)どころで、座繰りの町だった。座繰りというのは、繭
がグツグツと煮えている釜の前で繭を繰る操作のこと。前橋はどこに行っ
ても座繰りの小工場があり、サナギくさい熱気がムンムン立ちのぼって
いた。
小暮刑事の妻も熱湯にふやけた指先で繭を繰っていた。だから彼のそば
によると、かすかに洋服からサナギの匂いがした。
「そうか。わかったよ。懐かしい匂いだろう。前橋の近くの少女は、み
んなこんな匂いがするんだぜ」
佐太郎は沈黙したまま下を向いていた。
「お前が絞殺した可愛い仏のために、今日は自白をするか」
ここから、誰が取り調べても、ラチが明かなかった、吹上(ふきあげ)
佐太郎の自白が始まる。
匂いがきっかけで自白というのが、ぼくには驚きだった。それに蚕がか
らんでいたのが時代を感じさせた。
佐太郎は1889年2月、京都市西陣生まれ。父親は大の酒好きで、酔うと
寝ている子供たちに構わず性交を行っており、それを見ていた佐太郎は
7歳頃から妹の性器をいじくり回していた。
京都で強姦殺人を行い、その後関東連続少女殺人事件で関東八県で27
人以上を強姦し、うち6人を殺害した連続強姦犯。後に獄中で膨大な
自伝を書き残した。
大正15年9月28日、東京の市ヶ谷刑務所で絞首台の露と消えた。彼は
37歳だった。
志村有弘氏には、黒岩姫太郎特集で、同じような犯罪実録の読み物を出
してほしいと思った。
この本を読んで、もっともっと黒岩姫太郎のファンができたら、ぼくと
しては嬉しいのだが。