沈黙を守っていたかのように見えた、市橋達也が手記という形で逃亡生活の
 謎を語っている。

 千葉県のマンションで、2007年に英会話講師の英国人リンゼイ・アン・ホー
 カーさん(当時22)が殺害された。
 2007年3月26日の夜、自宅マンションを訪れた捜査員を振り切り、2009年11
 月10日に大阪のフェリー乗り場で発見されるまでの逃亡生活を市橋達也(32)
 が詳細につづった。
 本のタイトルは、『逮捕されるまで 空白の2年7ヵ月の記録』(幻冬舎刊)。

 市橋達也は出版の動機について、「自分が犯した罪へのざんげ」としており、
 印税収入はリンゼイさんの遺族に渡すか、公益のために使いたいと語ってい
 るという。
 英サン紙は、市橋被告がリンゼイさんの家族に印税を提供することについて、
 主な目的は日本で同情を得るためではないかとの見方を示したという。

 同紙はリンゼイさんの父親が市橋を見つけるために、辛抱強く戦ったことに触
 れ、リンゼイさんの家族は、市橋達也が執筆し出版することに嫌悪感を示して
 いると伝えており、代理人は「出版はリンゼイさんの家族をより傷つけることに
 なるだけだ」と語ったと報じた。

 ● 自ら”整形手術”
 その本の内容の一部が、週刊文春2月3日号に掲載された。
 その内容で驚きなのは、医者を介せず自分で整形をしようと試みている点だ。
 逃亡直後から裁縫セットを購入し自ら”整形手術”を試みていた。

 なにか読んでいるだけで痛くなってくるような内容になっている。

 『鼻筋の横から糸のついた針を突き刺した。反対側から針を抜いて、糸をギュッ
 と締めた状態にして、また反対方向へ針を刺した。それを何度も繰り返した。
 ちょうどラーメンのチャーシューの肉のかたまりをたこ糸でぐるぐる巻きに縛る
 ようにして、鼻を細くしようと思った』

 そして2007年の春、青森へ向かう途中、自らの顔に刃を入れる。
 『リンゼイさんが僕の唇を見て、「あなたの唇、黒人みたい」と言っていたの
 を思いだした。
 厚い下唇を薄くしようと、ハサミを持った手に力を入れると血が出てきた』

 一度はあきらめたものの、再び試みて切断した。未だに唇の右側には傷跡が
 残っているという。またその後、左ほほの黒子も自らのカッターで切り取って
 いる。

 自ら起こした事件が報じられた新聞を目にしたときには、深いショックを受けて
 もいたようだ。
 『とんでもないことをした、と改めて感じた。新聞に載っている彼女の顔はとて
 もきれいだった。汚い格好をして、鼻に針が貫通している自分がフランケンシュ
 タインのように感じられた』

 ● 逃げていたかった
 ふいに自殺を考えたときの心境をこのように書いている。
 
 『リンゼイさんが僕の部屋で言った”My Life is for me.”という言葉がずっと頭
 の中を回っていた。「私の人生は私のものだ」僕はあの時、あなたが言った
 その意味がわからなかった。すみませんでした。すみませんでした。
 そう繰り返しながら線路沿いを歩いていた。涙が出てきて止まらなかった。』

 しかし、その涙も自首に向かうきっかけにはならなかった。
 『自殺する勇気はなかった。自首する気もなかった。いったん指名手配される
 と、自首しても減刑にならないとラジオで聞いていた。逃げていたかった。そ
 れで思いついた言葉が「無人島」だった。無人島で一人で暮らそう。そう思っ
 た』

 沖縄本島から約百キロ西に位置する久米島から、モーターボートで約15分。
 周囲3キロに満たない離島オーハ島で、市橋達也は潜伏生活をしていた。
 この島に住民は現在一人。真夏でも、ほとんど観光客が訪れることはないと
 いう。

 手記では、この島でのサバイバルの生活の一端を披露している。
 『毒ヘビは首に毒のうがあり、内臓にはサルモネラ菌がいる。そうサバイバル
 の本には書いてあったので、首の部分は大きく切り落として、肛門から包丁を
 入れ慎重に腹を裂いて内臓を取り除いた』

 ここと働き口のある都市部を往復する生活だった。資金が底をつき始めると、
 都市で職を探した。

 ● 懺悔のひとつ
 週刊文春の記事では、記者が市橋の母親・信子さんを訪ねている。
 手記の出版は他のメディアから聞かされていたようだが、リンゼイさんを生き
 返らせるために、四国のお遍路さんをしていたようだと伝えると、
 「ええっ、本当ですか!?」と、しばらく絶句し、嗚咽を漏らして泣き始めた。
 ―― 息子さんと会いたい気持ちはありますか。
 「(親の気持ちは)わかりますよね。でも、息子がやったことは許されないで
 す。」

 出版元の幻冬舎によると、初版は3万部だが、すでに2万部を増刷して好調な
 出だしだという。
 この現代ではあまり考えられない、ロビンソン・クルーソー的生活は確かに
 読み応えのある手記になっていると思う。ぼくはまだ読んでいないので、次回
 は読み終えた後にまた別の形で、感想を書きたいと思っている。

 手記は、2010年6月に市橋に依頼したのがきっかけ。本人は、手記を書いた
 動機を「懺悔のひとつ」としており、印税は遺族に渡すことを望んでいる。その
 一方で、遺族は強い嫌悪感を示していると報じられている。また、裁判の情状
 酌量を考えているのではとの批判も出ているようだ。