バティック・ミュージアムを出て向かったのは、またしても王宮の南側。もういっそこの辺に宿とったほうが良かったんじゃないかと思えるほど王宮の南側にしかいなかった今回のジョグジャ旅、最後を飾るのはワヤン・クリッです。
地図を頼りに、途中タクシーのドライバーさんが道を聞きに行ってくれたりしつつなんとか到着。大通りを折れた小道にありました。
Sangar SawoSangarっていうから、ある程度の規模のグループでやってるところなのかと思ったら、まるっきり民家。
そして出てきたのは歯の抜けた小柄なおっちゃん1人。
「よく来たなよく来たな、入れ入れ。ん、インドネシア語がわかるのか?そうかそうか、入れ入れ」ととっても賑やか。招き入れられたのは、入り口すぐの応接セットが置かれただけの簡素な部屋でした。
「おじさんがワヤン・クリッ職人?」と聞けば、「そうだ、俺1人で作ってるんだ」とおもむろに部屋にあった大きな木箱を開けて…
「これがラーマだろ、シンタ(シータ)、アルジュナ…」
うわわわわ、いっぱい出てきた!
細かい彫り、鮮やかかつ繊細な彩色…。ワヤン・クリッにそれほど精通していない私でも、これは一級品だと一目でわかります。
おっちゃんは、作業中のワヤンなどを惜しげもなくあれこれと引っ張り出しては私たちに作業の過程やディテールについて、たっくさん話してくれました。
左はアウトラインを切り出したばかりのもの。右は彫り終わって、彩色待ちのもの。
右はハヌマンなので左のとは別人ですが、最初はただの皮の一片だったものが、小さなノミと木槌で細かな模様を穿たれ、一体のワヤンへと変貌していくその過程が垣間見えます。
陳腐な表現ですが、それは本当に「命を吹き込んで」いるよう。
この細かさ。
「昔はたくさんの外国人がここまでやってきて、写真を見てオーダーして帰って行ったもんだ。オーダーするだろ、俺が1人でこつこつ掘って、色をつけて、送る。手元に届くのはオーダーしてから3ヶ月後だったな。ヨーロッパへもアメリカへも、もちろん日本にもよく送ったよ」
とおっちゃんが出してきたファイルには、主要登場人物以外のワヤンの写真と、価格表が入っていました。
その価格表を見ていて、ふと疑問が。それぞれの登場人物に、いくつもバージョンがあるんです。値段もそれぞれ違う。「なんで?」とおっちゃんに聞いてみたら、ワヤン・クリッは、それぞれの登場人物につき2体以上のバージョンがあるのが普通なんだそうです。例えばラーマなら、平常時のラーマと戦いの時のラーマ、といったように、シーンに応じて使うワヤンが代わります。戦いの時は全身から炎のようなものが出ていたりと、影絵にした時に見た目に分かりやすいような造形の違いはもちろん、ワヤン自体の色も違うんです。平常時のラーマは肌が金色だけど、戦いの時は黒。へぇぇぇぇぇ。「大きさだって変わるんだ。通常時のアルジュナはこれくらいだけど、怒ったらでっかくなるんだぞ」。
私が大好きな、白い猿の神様・ハヌマンは4変化。
これはノーマル・ハヌマン。
この記事冒頭のSangar Sawoの看板に使われているワヤンの写真は、戦闘態勢の巨大化したハヌマンなんだそうです。山運んで来ちゃう時ですね。スーパーサイヤ人みたいに全身の毛が逆立って赤くなってます。ワヤン自体のサイズもどどんと大きくなるのだそう。
「登場人物によって、使う皮の部位も違うの?」と聞いたら、奥から切り出す前の大きな皮を出してきて、「そうさ、大きいのは厚みのある部分、シータなんかは薄くて柔らかい部分を使う。女性のしなやかさを表現するためにな」。
へえええええぇぇぇぇえぇ。
「ワヤンを飾る時にはポーズに気をつけないと。こう、手を下げて、手のひらを上に向けると『Welcome』だ」
「え、ポーズに意味があるの?」
「そうだよ。例えばラーマとシータ。シータのすぐ後ろにラーマがいて、2人とも同じ方向を向いて手を下げていれば『Jalan Jalan』。ラーマが後ろにいるのはシータを危険から守るためだ。2人が向かい合って手を下げていれば『Damai』。夫婦仲は平和なのが一番だな。でもラーマが他に女を作ったのがシータにバレたら、こうだ」
と言って、シータの両手を腰に。
「シータがラーマに怒ってるんだ」
ここで「うわあああ、そうなんだ!!!」と大納得の私。インドネシアでは人と話す時に腰に手を当ててはいけない、それは怒っているということだから、というのはよく知られた習慣ですが、ワヤン・クリッから通底してたんだ…!
「で、こうなったら喧嘩だ」と、2人の手を胸のあたりまで上げて前に向けます。
「家に持って帰って飾っとくだろ。普通の時は『Damai』にしとけばいい。『Jalan Jalan』にしとけば、『ああ、ここの家の人はでかけてるんだな』ってわかる。旦那の浮気を発見したら、シータの手を腰に当てときゃ、それ見た旦那が『いけねぇ、バレた』ってわかるわけさ」
わっはっは、と笑うおっちゃん。まあ家で実際にやるかどうかは別として、私は「ワヤン・クリッの仕草が今もインドネシア人のコモンセンスに通じている。そしてインドネシアの人々は、ワヤンがどんなポーズをしているかでそれがどんな場面なのか分かる」という部分にガーン、とやられていました。
深い…。深いってわかってたけど、改めて深い…!
おっちゃんがワヤンを持って外へ出ながら、「こうやって日に透かすときれいだぞ」とやってくれたところ。
これぞワヤン・クリッの真骨頂。影にすると、彫りの細かさにぞくりとします。
色は全て顔料。天然の鉱石などを細かく砕いて水で溶いたものを、猫の毛でできた筆で塗っていくのだそうです。「猫の柔らかい毛じゃないとダメなんだ。こういう細い線を描くのにはな」。…その猫ってまさか筆を作るために殺したりしてないでしょうね…と背筋が寒くなりますが…そんなことはしてないと信じたい。
腰に巻いてるサロンがちゃんとバティックの伝統模様なところもグッときちゃう。
さっきの価格表、ハヌマンだけ飛び抜けて高かったので、「なんで?」と聞いてみたら、「白はむっっずかしいんだ!白が一番塗るのが大変なんだ。定着しにくいから」とのこと。「金は?」「金は簡単」そういうもんなのか。
「こういう、腕輪なんかのところ、3色のグラデーションになってるだろ。これも必ずこうしないといけないんだ」よく見てみると、確かに、薄いピンク、やや濃いピンク、赤、といったように同系色のグラデーションになってます。「必ず3つなんだ。シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマ」ここでも「うわあああぁぁ」。これ、バリ舞踊の化粧と同じ意味。まぶたから眉毛にかけて、黄色、青、赤の3色を引くんですが、それも「シヴァ、ヴィシュヌ、ブラフマといつも共にある」という意味なんです。
全部、ぜーーーんぶ繋がってるんだ…。
これまでに何度もワヤン・クリッも観ているし、バリやジャワで他の職人さんの仕事ぶりを間近に見る機会もあったけど、こんな風に知識が深まったのは初めてのことでした。
おっちゃん、凄い人だった。
前回のジョグジャ旅行でワヤンを買わなかったことだけが心残りだった、と言っていたお友達がラーマとシータのペアを購入。
私は「このおっちゃんのこの仕事がこの値段で買えるなら全然高くないけど、家に飾るかな…?」とギリギリのところで迷いが出てしまって購入せず。
でもハヌマンを持って写真撮らせてもらいました。
おっちゃんは、「土産物用の小さいサイズのなんか作らん。ありゃニセモノだ。ただのおもちゃだ。ワヤンじゃない」ときっぱり。職人の誇りと矜持と、深い知識と確かな技術に裏打ちされた素晴らしい手仕事。どうか1日でも長く、1体でも多くのワヤンを作り続けてほしい。
「大通りまで出ればタクシーがつかまるよ。スリに気をつけるんだよ。カバンは体の前にかけなさい。またおいで」とにこにこ手を振って見送ってくれました。
とても大切ななにかをもらったような気がします。
《店舗情報》
Sangar Sawo
住所:Jl.Suripto MJ3/911 Mantrijeron, Jogjakarta