http://blogs.yahoo.co.jp/sambahos/2688787.html
下書きのままですがキャンディーズのありがとうカーニバルのツアー追っかけの事や解散までの自分の思いが貴重な記録として残っています。

そのデータを元に今日から4/4まで、34年前の忘れもしない熱かった青春の1ヶ月を追憶してみたいと思います。私がファンとして活動したのは最後の1ヶ月だけですが、キャンディーズを後世に伝える資料の一助になれば幸いです。
どこまで出来るかわからないですが、資料が間にあわなかった場合は後日追記しながら内容を充実させていく予定です。
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1978年3月2日。今から34年前の今日、最後の国公立大学の2日目の試験が終わり浪人生活から開放された。すでに第一志望の私大には合格しており、某公立大は昨年自分を落第させたことへのリベンジとして受験した感じだ。自信はあったし実際に後日合格していた。 3月下旬に国立大の二期校の受験が残っていたがそこまで挑戦する意志も気力も残ってなかった。(共通一次試験が導入される1年前だった。国公立大は一期校と2期校に分かれていた。2期校は受験生が最後の望みを託すので各校凄い倍率だった)。
受験が終わった日の午後、自分は何をしていたのかあまり記憶がないが予備校の講師への報告と仲間に会いに中央線の高円寺に行ったと思われる。
あの頃、丁度ビージーズの「愛はきらめきの中に」が流行っていた。

1977年の大晦日は予備校に泊りこんでラジオで紅白など聞きながら仲間と越年勉強会をした。その時のラジオからはビージーズの曲や石川さゆりの「津軽海峡冬景色」がよくかかったのを今でもハッキリと覚えている。皆で予備校の屋上に上がり初日の出を拝みながら歌ったのも「津軽海峡冬景色」だ。
石川さゆりは今でも美しい方だがデヴュー当時はこんなにキュートなアイドル顔だった。

岩崎宏美の「二十才前」という曲もよく聞いた記憶がある。そう私は当時18歳。まさに二十才前だった。まだ人生18年しか生きていなった。
岩崎宏美 「二十才前」
#UP主様 映像お借りします。
受験から開放された日、キャンディーズの事はすっかり忘れていた。
おそらく世の中のファンは騒然となっていた時期だと思うが、開放感や疲れからかその手の話題にはならなかった。それに自分はそれほど熱狂的なファンというわけではなかった。
私大に行くか公立大に行くかの選択で頭が一杯になっていたかもしれない。私大行きは親の負担を考えると肩身が狭かったが、兄貴と同じその公立大に行くのは気のりしなかった。工学部だけキャンパスが独立している大学はいやだったのだ。
結局、その日の夕方、高円寺の書店に積まれていたあるものを見かけるまではキャンディーズの事に思いは及ばなかった。それだけ背水の陣で追いつめられた1年間の浪人生活だったと思う。
終わった! とにかく終わったんだ。。。
すべてから開放された1978年3月2日の午後。
ワクワクする様な春の予感は少し感じていたと思う。
でもそのワクワク感の先に、キャンディーズと共に過ごす熱い1ヶ月が待っているとはこの時は思いもしなかった。。。。
この続きはまた明日。
-------- 追記 --------
国公立大の受験は3/1と3/2の2日間だったのを思い出しました。
というわけで開放されたのは3/2でした。その日の午後に試験の傾向など報告しに予備校のあった高円寺によりました。そして帰りに書店であるのものを見かけてキャンディーズの事を思い出します。その部分は本日の夕方に書きます。
いま気づいたんですが岩崎宏実の「二十才前」は(作詞)阿久悠と(作曲)穂口雄右の組み合わせなではないですか!!
キャンディーズにこのコンビによる楽曲提供が実現していれば。。ミリオンセラーの曲が生まれたかもしれないですね。