前の日記では、まだまだ不十分な解説しかしていませんでした。
この日記では、もう少し洞察を先まで進めて行きたいと思います。
レイキが特殊なエネルギーであるという前提が間違いのもと、という筋に沿って議論を展開しましたが、この特殊なエネルギーという発想は、おもに気功と比較して語られてきたことでした。
気功では一般的にエネルギー伝授というスタイルがないことが多く、レイキではアチューンメントと呼ばれるエネルギー伝授が、一般的には必須だとされているので、人間が潜在的に備えている生命エネルギーとは異なった高次のエネルギーという想定で、レイキが特殊なエネルギーだとされたのが、もともとの発想だったわけです。
その後、臼井式レイキのオリジナルなエネルギーに対して、宇宙エネルギーという言い方は一般化したものの、高次のエネルギーという言い方はされなくなり、高次元レイキや発展型レイキといったレイキが世に広まるなかで、臼井式レイキのエネルギーが特別なエネルギーだという認識も薄らいできた感はありますが、もともと日本に逆輸入されて広められるプロセスでは特別なエネルギーという認識からスタートしているわけです。
それが、今でも根底の部分ではレイキについての認識の基礎になっています。
スティーブ・マレーなどが批判しているのは、まさにそうした最初の段階での認識が厳密には正しくないということです。
特別なエネルギーであると見なすことは、シンボルを秘密にすべきである、アチューンメントの方法も秘密にすべきである、という結論にも繋がります。
レイキのスクールでは、人間の本来的な潜在的能力をどう上手く活用するかを教えている、という認識が基盤になっていれば、秘密にすべき、という発想にはおそらく繋がりません。
また、特別なエネルギーだから、誤用するとその反作用として負のカルマを創ることになる、という発想も出て来にくいでしょう。
そもそも基本的に誤用という発想にはならないわけです。
スティーブ・マレーは著書のなかでレイキのシンボルやアチューンメントの方法を全面的に公開しています。
これには賛否両論ありますが、ある有名な日本人のレイキマスターが批判しているように、秘密を公開するのは越法罪(おっぽうざい)になる、みたいな批判は根本的に当てはまらないのです。
これは間違った認識を基盤にしていると、こんな脅迫じみた発想に繋がるという典型的なケースです。
なぜ越法罪になるという批判が間違いかについては、以前詳しく論じたことがありますが、シンボルの公開の是非はあくまで社会的な合意に係わることで、密教が様々のエネルギーやテクニックを秘密にしているのとは同列に論じられないという理由からです。
レイキのシンボル自体にエネルギーが秘められている、だからシンボルを特別に尊重しないとならない、というのであれば、こうした発想も成り立つし、レイキが特別なエネルギーであるという発想も間違いではないでしょう。
しかし、これもスティーブ・マレーが批判していますが、シンボル自体にエネルギーが秘められているわけではないのです。
シンボルやマントラは、あくまでツールに過ぎません。
シンボルを活用することでエネルギーが発動するのは事実ですが、あくまでシンボルを通してエネルギーが発動するのであって、シンボルにエネルギーが秘められているのではないのです。
その証拠として、シンボルを使わなくても、例えば遠隔レイキが可能です。
しかも、シンボルに頼らなくてもOKになるのが、本来レイキヒーラーが目指すべき状態です。
正しい考え方に依拠しないと、ヒーラーとしての成長も阻害されます。
正しい教えが欠落していることで、実際に日本ではレイキヒーリングの発展が著しく阻害されているのが現状です。