〜粒は語る〜みたまリーディングの『みたま まんまる みたまんま』

〜粒は語る〜みたまリーディングの『みたま まんまる みたまんま』

すべてはひとつ。
目に見えない情報の粒つぶが、その流れを多彩にアラワしつつ、
そこで生まれた情報をさらにめぐりに蓄え続けるみたまのセカイ。
粒のめぐりとアラワレたちは呼吸のリズムで調和して、ともに今を重ね合う。

すべては情報の粒でできている。
あらわすかたちはちがっても、
すべてが粒でできたもの同士。
情報の粒つぶがめぐりあう『ひとつ』の一部同士。
すべては通じ合っている。

そうして、メッセージを確認し合って生きている。







『919  宮島』

と浮かんだ感じが行動に移すときの感覚だった。


翌日、

9月19日、宮島へ。

大元コースから駒ヶ林経由で弥山に上がった。


 
駒ヶ林の厳島合戦古戦場「竜ケ馬場」

 
弥山展望台から駒ヶ林方向

 
おだやかな瀬戸内海

・・・・・・・・・・

人差し指にできたイボのようなもの。


『私に伝えたいこと、受け取れとらんけん、溜め込んで見える位置に現れたとしたら…』話しかけとこう!

と、

それからちょいちょいイボをさすりながら

「受け取れたかね?まだ受け取ってないのがあるんかね?…」とか話しかけながら過ごしてたら、

形の変化が早まって、

その状態に合点いくようなことが日常にも起こってた。


宮島で山登りながら指のイボを触るとやっぱり違う。

いろんな経過を経て、

治る感じでなだらかになってきてる気がした。


なので、

このところの心や体、自分のまわりの動きは、

イボを現してる粒たちの影響が大きいと

思わずにはおられん。



今の状態が不具合だから症状になる。

助け人の手を借りながらだとしても、

自分が自分に話しかけたり聞き耳立てたり…

もっともっとやったら

今よりもっと楽しいことか増えるはず。


なるべく、

やれることは自分で不具合に向き合うようにしてたつもりでも、ちょっとライトだった、これまで。


もっともっと、

自分の中の二人三脚みたいに話そう。

と、思ったりしたので、


帰ってから暇さえあれば、あっち伸ばし、こっちもみ…、山登りダメージの体を触りながら

「ここらへん、こうしとく?」

とかイシキで問いかけつついつも以上に

思いついた動かし方をしてみた。




そこで919の動きで伝えられたものはこういうこと?と結びついたのが…



『黒に白を挿し、白に黒を挿す』

から連想された


「黒と白」

「山陰と山陽→陰と陽」


とかと同じく、


「人の表側と内側」

「人(人以外も)の姿と、その人(人以外のなにか)を現す情報の粒」

も含めたいろんな対極や相違あるもの。



それら、

それぞれが混ざりあって一つの表現をするけど、

それぞれの色みを消すのとは違う。


そのとき対極のものの交わり、交わる場、空間とか、

交点みたいなとこが生まれる。


黒と白でいうとグレーのような部分



その部分が相互のものがきれいに溶け合っていれば、

相互の色みをバランスよく反映させることができる。


相互がそれぞれを尊重して「我が、我が」を出し過ぎないでおける。


919の動きを通して

伝えられたのは、そんな感じのこと。



99(9月9日)

くくる、結ぶ、縁のととのえ


919  (9月19日)

何かを一つであらせる力は、

つながろうとする双方(多方)と、

それらが重なり合う交点に生まれる

『くくりめ』

という色みでまもられる。

   


今回の宮島行き。

この前から、ものすごく陰にこもりたがっている

もう一人のジブン(粒として感じる自分)を

中和させることにもなるのかとも感じてたけど…


中和された気もするのと、

その中和のはたらきこそが『くくりめ』のチカラ。


それを知り、それを上げることを

身をもって伝えてもらった気がする。




異種に感じるもの、人、空間、

自分の中にも外にもいろいろある、

『くくりめ』のチカラにありがとう🙏


そう思うことも

くくりめ自身の活力にもなり

その恩恵はわが身にめぐるし、

すべてはひとつなんだから、

他の身にもめくることにもなる。



919の昨日は、

99の間で1つになる部分

『くくりめ』のととのえに思いを馳せる

きっかけをいただいた。


すべてに感謝、ありがたい🙏✨

目の前のいつもの景色に、

つぶの流れを思い楽しむ。



今朝は、

「あさがおは共存上手よねぇ…」

と玄関先の木と同化したように咲くあさがおを見た。


側の誰かの手を借り肩借りて、

相手の姿を消しさることなく

だけど、のびのびと。


あさがお役の自分の一生、

しっかり現して

その時期過ぎれば枯れてカタチをなくし、

肩貸してくれた相手から離れていく。


もちろん、

肩貸してくれる方も共存上手。




身近な他者にそれを見て、

いろいろな他者にあてはめて、

表現されるものは

姿やカタチ、種別、大小ちがえども、

なるほどなるほど共通項。


・・・・・・・


すべての共通項、すべての源は、

情報の粒つぶめぐる「ひとつ」


粒たちは、

「ひとつ」がもつ特性、性質をいろんなカタチに現し合うように、生かし、活かして共存共生。


共鳴しながら、巡り合う摂理。


今日もありがたい🙏

今日もありがとう🙏





夕べ「くぐり戸」と感じてはじまった粒つぶの描き出し。一旦中断して、

今朝の鏡磨き
(一つ前の記事…

のあとの粒の繋がりで辿り着いた場所は、
どちらも「被爆」に関係があった。



海田町の「九十九橋」は、

 兵器を製造していた工場の廃材を利用して架けられたそうで、構造上問題のないところは補修せず使われたため、戦争の傷跡である弾痕などを現在でも見ることができるらしい。(広島県HP参照)




広島市中区の「白神社」は、境内に被爆の跡残す手水鉢や狛犬などのほか、被爆樹木も。

被爆樹木は、地上部分が消失したものの根から芽吹いて逞しく成長したらしい。


戦禍をくぐり、

その記憶を残しつつ、姿を変えても逞しく今に息づくカタチ。



戦禍をくぐり…

生き抜く力が見せるもの。



2つの接点が重なった時、


今日ここでの粒の繋がり合いが

「くぐり戸」

で伝えたかったことのように思い、続きを描いた。



自分たちの

生きる強さを甘く見るな


上見て

飛べないときは


下見て

這いつくばって

くぐればいい


日なた歩いたり

日陰歩いたり

どっちもあっていいじゃない



自分のくぐり戸

必ずあるから



そんな、

優しい檄を飛ばしてるように感じた「くぐり戸」


 

『くぐり戸』