翌朝、大海の顔をいくぶん赤味は消えていたが、
腫れは収まっていなくて、
目は相変わらず試合明けのボクサーみたいに腫れあがっていた。
学校には、
「体調はいいみたいだけど、腫れがまだあるので休ませます」
と連絡を入れた。
午前中はゆっくり休ませ、
午後から哲も休みにして大海を連れて、
ドライブに出かけた。
自宅から南に車を走らせた。
二十分ほど車を走らせると、ヤシの木の仲間であるフェニックスが
道路の真ん中に大きく茂る
開放的なバイパスを走る。
空はどこまでもコバルトブルーが広がる。
小さい雲が魚のように泳いでいる。
さらに走ると、日南海岸という海沿いを走る最高のドライブコースに辿り着いた。
海を左側に見ながら、海岸線道路がどこまでも続いている。
宮崎特有の鬼の洗濯岩の風景も広がっている。
岩に打ち寄せ、白い波がはじかれる様子もまた美しい。
助手席で、大海は黙って海を見ている。
❘何を考えているのかな?
そう思いながらも、哲は何も声を掛けなかった。
そして、目的地、白い灯台の駐車場に車を停めた。
車を降りて白い灯台に続く、砂利道を哲は大海とゆっくり歩いていく。
灯台に続く真っすぐな道と、
それを大回りするような二つの道があり、哲は大回りする道を進んだ。
右側には、磯に突き出した巨岩に波が当たり、白い波しぶきをあげている。
大小無数の巨岩が、陸地を囲むように点在している。
その巨岩の中でもひと際大きい岩の上に白いベンチが置かれている場所がある。
哲はそのベンチを目指した。
その巨岩の下まで来て上を見上げると、そのベンチは見えなくなっていた。
人の背の三倍はあろうかというほど大きな岩だった。
哲は足元を確認しながら、その巨岩を登り始めた。
数歩上ったところで、後ろをついてきている大海に視線を移した。
すると一歩上ったところで足が滑った。
やり直すが、二歩目、三歩目、足が震えてそれ以上登れない。
足に力が入ってない。体を持ち上げる脚力もない。
❘なんてことだ。こんな岩も登れないのか?
哲は大海の手をしっかり握り、足を着く場所を指示しながら、
一歩一歩確実に登らせ、どうにか岩の上に立つことができた。
大海の足はずっとプルプル震えていた。
哲が引っ張り上げてやらないと自分の足では登れないほどだった。
哲は改めて思った。
「このままではダメだ。運動が不得意というレベルではない。
日常生活にすら支障をきたす。
これは俺が一人前の男にしてあげなくっちゃいけないことだ」
哲はそう強く思った。
岩の上にどうにか立ち、その白いベンチに二人で腰かけた。
目の前には、壮大な日向灘、その先には太平洋が広がっている。
視界を遮るものがなく百六十度くらいの広がりがあり、
水平線が緩やかな曲線を描いているように見える。
地球が丸いことを感じずにはいられない。
その景色を見ながら、哲は大海に語り始めた。
「お父さんはここからの眺めが好きでな、
何度も来ている。お前も何度か連れてきたことがあるよな?」
「うん」大海は頭をコクリと動かした。
「ここは何度来ても感動するし、
悩んでいることもちっちゃなことに思えてくるんだ」
「お父さんも悩むことあるの?」
「そりゃ、あるさ。そんな時はここに来て、
海を見ていると、なんだか心が穏やかになっていくんだ。
そして、気づいたら悩んでいることは小さく小さくなっている」って笑った。
「海っていいよな。大きいよな。だからお前の名前はそこから来たんだ」
初めての告白のように、そう伝えたが、大海は
「それ何度も聞いたよ」と突っ込みを入れた。
「あっそうか」とまた笑った。
「大山大海(おおやまひろみ)。大きな山に大きな海。
お前の名前、めちゃめちゃいい名前だと思っている。
今でも、こんなにいい名前なかなかないだろうって、自画自賛している」
とまた自嘲気味に笑った。
「でも、これは言ってないと思うけど、
も一つその名前を付けたかった思いがあるんだ。
「えっ?何なの?それは聞いていない気がする」
それはな、「井の中の蛙、大海を知らず」ってことわざがあるだろ。
そこから、大海っていう漢字を付けたかったんだ」
「どういうことかって言ったらな、
逆からみたら、井の中の蛙じゃない奴は、
みんな大海を知ってるっていうことにもなるだろ。
そしてもっと意味を広げてな、お前自身が井の中の蛙に収まらない、
広い世界で生きていく人間になる、
という思いもあったんだ。分かるか?」
哲の言葉を頭の中にゆっくり反芻するように考えて、
「よく分かんないけど、分かるような気がする」
「そうなんだね。それは初めて聞いた」
大海はそう言った。
「だからな、大海って名前で、
女の子みたいだってバカにする奴もいるかもしれないけど、
いずれみんなが知る大きな名前になるんだから、
そんな小さなことは気にするな、って言いたいな」
「分かった」と大海は笑顔で頷いた。
「そしてな、今日、もう一つ伝えたいとおもっていることがあってな」
そこで一呼吸を置いて、大海の目を見た。
えっ、なに?って顔を確認してから、哲は言った。
「俺と一緒に走る練習をしないかって思ってね」
❘えっ?一緒に走る・・・練習?
突然の話に、大海は大きく目を見開いた。
「なにそれ?」
「これまでな、お父さんは、お前が運動が苦手のこともお前の個性だと思ってたんよ。
だから、それを変えちゃいけないって。
運動が不得意なことも吉として、
それを無理に手を加えて、変えちゃいけないと思ってたんよ。
でもな、お前はその足が遅いことでバカにされ、なんだか苦しんでる。
それを見ていたら、この考えは変えなきゃなって思ってな」
大海は黙って聞いている。
「俺はな、もう少しお前を速く走れるようにすることができるはずだと思ってる。
それは、お前も知っていると思うけど、お父さんは昔、足が速かったんだよ。
そしてずっと運動をやってきていたから、
どうすればお前が速く走れるようになるか、
分かるような気がしてんだよ。
だからそれができるのに、お前に手を差し伸べてあげることをしないって、
逆にいけないことなんじゃないかって思うようになってな」
「だからな、お前も足が少しでも速くなれば、
女子からもバカにされず、
そんな苦しい思いをしなくて済むんじゃないかって」
「どうだ、一緒にやってみないか?」
大海は真剣なまなざしで哲を見ている。
【それはそうだけど・・・。
お父さんが言うことは理解できるけど・・・
足がこんなに遅い自分が速くなれるというイメージは全然できないし、
そりゃー足が速くなれたらうれしいけど・・・】
大海は複雑な思いで哲の話を聞いていた。
そんな大海の思いも感じながら、
哲は話を続けた。
「苦手なことをするのはそもそも嫌じゃん。
でも、それをちょっと努力して、足が速くはならなくても普通くらいにでもなれば、
今までお前をバカにしていた友達は、
きっと何も言わなくなる。そっちの方がいいと思いわないか?」
ずっと大海は真剣なまなざしで哲の顔を見ている。
「だから、お父さんと一緒に走る練習をしてみないか?」
もう一度そう言った。
大海は、父親である哲が言わんとしていることを理解して
大きくうなずいた。
「分かった、やってみるよ。
だってこのまま女子より遅い男子のままじゃ嫌だもん」
「だよな。そっしゃ。きっとお前は『足が遅い』とは誰からも言われなくなる。
大丈夫だ、お父さんに任せろ」
「うん」
複雑な気持ちはあるだろうが、
大海は小さくうなずいた。
「じゃー明日からと思っていたけど、
ここは気持ちのいい場所だから、ちょっと走ってみようか。
あの灯台まで競争しよう。
お父さんも随分走ってないけど、お前にはまだ負けないはずだ」
しぶしぶ大海は立ち上がり、
哲に手を握られながら岩の上からどうにか降りることができた、
空は青かったが、陽は傾きかけていた。
ピーヒョロロとトンビが鳴いている。
「用意はいいか? よーい、どん」
哲は久しぶりすぎて、走れるかなと不安もあったが、駆け出した。
哲は必死に手足を動かしている。
❘ホント久しぶりだな。
手足バラバラじゃねーか。
ちゃんと走れているか?
この歳になって、全速力で走ろうとしている自分がおかしかった。
息子とこうやって全速力で競走する日が来るなんて想像もしていなかった。
でも、なんだか気持ちいいなー。
大海も一所懸命、哲に追いつこうと走っている。
❘出来ることを精一杯やってあげよう。
きっと最高の未来が待っている。
先に白い灯台に辿り着き、
がんばってここまで来ようとしている大海を笑顔で迎えた。
必死に走ろうとしている大海の後ろには、
青く光る大きな海が広がっていた。