インドに行くことが決まってから、哲は何冊かのガイドブックに目を通した。
ところが、どれを開いても「酷い体験談」ばかりが並んでいる。
――本当にこんなこと起こるの……?
考えれば怖くなるだけなので、そのたびにガイドブックを閉じた。
だまされる話、ぼられる話、酷い目に遭う。
そのなかでも特に記憶に残ったのは、ガンジス川でのエピソードだった。
月を見るために夜の舟に乗った旅行者が、二度と戻ってこない――そんな恐ろしい話だ。
持っていたビデオカメラを奪うために、舟の上で命を奪うのだという。
――人の命よりもビデオカメラの方が価値があるって……どんな国なんだ。
さらに、ガンジス川に流されることは「聖なること」とされているため、
船頭にとっては「いいことをした」くらいにしか思っていないのだ、と。
――やばい国だな……。
不安はそれだけではなかった。
空港に到着してもスーツケースが出てこない、あるいは中身がごっそり盗まれる
――そんな事例もよくあると書いてある。
対策として、スーツケースを鎖で十字に巻き、南京錠で施錠するとよい、
とあったので、哲たちは念入りにそうしてから預けた。
「出てこいよ……」
ターンテーブルの前で祈るような気持ちで待っていると、スーツケースは無事に現れた。
哲は胸をなでおろす。
――よかった……。
けど、見渡せば鎖を巻いているのは俺たちの荷物だけか。なんだか浮いてるな……。
初日の夜だけは、到着が遅くなることが分かっていたので
ホテルを予約し、お迎えもお願いしていた。
しかし、スーツケースを受け取り、出たところで待っていた人のプラカードの文字はどこか怪しかった。
哲の名前と若干違っていた。
それでも、その人しか見当たらず、哲たちは仕方なくついて行くことにした。
ここからが、まさにインドの洗礼だった。
哲の時計の針は六時を指していたが、
時差を考えれば現地時間はまだ明け方の三時半。
外はまだ暗闇の中。
空港の外に一歩出ると、モワッとした熱風が全身を包んだ。
湿度も高い。
不快な気持ちになる。
50mも離れた向こう側に黄色い伝統が不気味にあかりを灯している。
その電灯の下で黒く動ごめく無数の影が見えた。
――何だ……あれは?
――人?こんな時間に、こんなに人が……?。
それは旅行者ではなく、空港周辺に身を寄せる浮浪者たちだった。
一気に怖くなる。
気がつくと、その浮浪者たちは向こうの電灯の下だけでなく、
周りにもうじゃうじゃいた。
あっ?
彼らは一斉に哲たちを取り囲んでいた。
次の瞬間、無数の手がスーツケースに伸びた。
「しまった!」
哲は娘を抱いていたため、抵抗できない。
あっという間にスーツケースは奪われていった。
「返せ、この野郎!どこへ持っていくんだ!」
暗闇に哲の叫びが虚しく響く。
迎えに来てくれた運転手さんを呼ぼうとするが
すでに向こうに行ってしまって、そんな状況を理解していなかった。
振り向けば、美香の荷物も奪われ、
彼女の顔には恐怖の色が浮かんでいた。
哲はただ「返せ、返せ、この野郎」と叫ぶことしかできない。
一瞬の出来事で哲は必死に考えるが
答えなどでない。
「返せ、返せ」
50メートル先、ホテルの運転手が車で待っている。
だがその時、浮浪者たちの動きに妙な違和感を覚えた。
――あれ?みんな……車の方へ向かってる?
彼らは互いに奪い合いながらも、
結局スーツケースを運転手の車のトランクに投げ込んだ。
美香の荷物も同じように入れられる。
――どういうことだ……?
わけが分からぬまま立ち尽くす哲に、
運転手が後部ドアを開け「乗れ」と合図をする。
慌てて乗り込むと、今度は車内にまで手が伸びてきた。
「バクシー!バクシー!」
スーツケースを運んでやったんだから金を寄こせ
――そう叫んでいるのだろう。
――頭の片隅では分かろうとしている……けど怖すぎて動けない……。
娘を抱きしめたまま、哲と美香は車の中央で震えていた。
運転手が追い払ってくれたおかげで、
ようやくドアは閉まり、車はホテルへと走り出した。
インドについてわずか数分間の出来事。
――哲は全てのエネルギーを使い果たし、放心状態のままうなだれた。
