哲は、韓国ソウルからインド・ニューデリーへ向かう飛行機の座席に身を沈めていた。
隣の席では、美香が子どもを抱きかかえたまま、静かに眠っている。

 

 

腕時計を見ると、針は五時を回っている。

――長かったな。ここまで丸一日以上かかってしまった。

 

昨日の朝五時に起きて、高速バスで五時間かけて博多へ。
それから福岡国際空港から仁川(インチョン)国際空港までのフライトは一時間45分ほど。

そこからがまた長かった。
最も安い航空券を選んだためか、空港内での待ち時間は実に十二時間。
ほぼ初めての海外旅行という不安も重なり、

結局、空港でも移動中も一睡もできなかった。

 

飛行機が降下を始め、エンジン音が低く唸った。

――もう二十四時間以上起き続けている。体が重いし、頭もボーっとしている。けれど、ここからが本当の始まりなんだ。
窓の外にまだ暗闇のままだった。

 

 

思えば1か月前、美香との話し合いの末、

家族でインドに行くことに決めた。

 

決めてから慌ただしい日々が続いた。

入国に必要な予防接種のことを知ったのは、準備を始めてすぐのことだった。


本来なら半年ほどかけて六種類の注射を計画的に受けなければならない。

だが、彼らには一か月しか時間がなかった。

そこで病院の医師は、大人も子どもも、一度に数種類をまとめて打つという

無理なスケジュールを組まざるを得なかった。


二歳半になる娘・さやかの接種については、医師もことさら真剣だった。

「知っていると思うけど、インドは非衛生的な国なんだ。世界中の病原菌が集まる場所とも言われている。
大人でも大変な思いをする国に、この子を連れて行くんだから……最大限、注意してあげてください」

診察のたびに、医師はそう繰り返した。


最後の接種を終えたのは、渡航の前日。

「これで大丈夫。いってらっしゃい」

医師は笑顔で送り出してくれたが、最後にこう付け加えた。

「娘さんだけには、特に気をつけてあげてください。まだ幼いんだから……親の責任ですよ」

 

 

出発前にはアパートを引き払い、売れるものはすべて売った。
残った荷物は段ボール六箱だけで、実家に預かってもらった。

 


帰国がいつになるのか分からないため、

役場に「海外転出届」を提出し、日本には住所がない状態にした。

市民税とかよく分からない請求書を受け取らないためでもあった。

 

 

「シートベルトをお締めください」

機内にアナウンスが流れた。


飛行機は揺れを抑えながら、

静かにインディラ・ガンディー国際空港の滑走路へと近づいていく。

 

哲は深く息を吸い込んだ。
胸の奥で高鳴る鼓動を押さえ込もうとするかのように。

――いよいよ始まる。インドでの新しい日々が。


彼らの波乱の旅は、いよいよ幕を開けた。