「イギリスから帰ってきたら、ちゃんと働くから」
そう約束して、会社を辞めて、ストーンヘンジを見に行くことを
妻の美香は了承してくれた。
しかし帰国してから彼の胸の奥には新たな迷いが渦巻いていた。
「このまま就職先を探して働き始めて……本当にそれでいいのか?
俺の迷いは消えるのか?」
わがままを言ってイギリスまで行かせてもらったことは分かっている。
だが、このままではまた同じ壁にぶつかる気がしてならなかった。
「俺は……何がやりたいのか、さっぱり分からない」
もし次の職場に就けば、それはきっと定年まで続ける仕事になるだろう。
もう一度辞めて違う道を探す、そんな勇気は持てないはずだ。
だからこそ、次の一歩を踏み出す前に、自分が望む方向性くらいは見極めておきたい。
「わがままだってことは分かってる。でも……もう少しだけ時間が欲しい」
そう思い切って美香に伝えた。
彼女は黙って耳を傾けていた。
表情は穏やかだったが、
その奥に「我が家にはそんな余裕はない」という思いが
透けて見える気がした。
「どのくらいの期間、ゆっくり考えたいの?」
美香の問いに、哲は答えを探した。
……半年、と言いたいけど、それは厳しいよな、と思い直し
「……3ヶ月かな」
遠慮がちに口にすると、
美香は少し考え込んでから言った。
「3ヶ月か……ギリギリね。生活費はそれで底をつくと思う。
もし3ヶ月後に働き始めても、お給料が入るのはさらに1ヶ月先……」
彼女は理解しようとしてくれている。
だが本音は「せめて1ヶ月くらいにしてほしい」なのだろう。
二人の間に沈黙が流れる。
哲は小さくつぶやきながら、状況を反芻する。
「……生活費は3ヶ月で底をつくのか」
「……でも3ヶ月は生きていける」
「……とはいえ3ヶ月なんて、あっという間だ」
「……日本は生活費が高いからな」
「・・・・・・・・」
その瞬間、二人の思考は何かに引っ掛かった。
――日本は?
――生活費が高い?
――ん?
――ん?
「もし……物価の安い国に行けば、もう少し長く生活できるんじゃないか?」
――どこ?
――アジア?
二人は同時にひらめいた。
「……インド?」
名前を出した瞬間、
未来の扉がわずかに開き光が差した気がした。
インドなら、日本で3ヶ月分の生活費が、10倍の長さに伸びるかもしれない。
単純計算で30ヶ月――2年半だ。
もちろん飛行機代や諸経費を差し引けばそこまで長くはならないだろうが、
それでも十分すぎる時間だった。
「インドに行けば……俺たちはもっと自由に考えられる」
哲の心はすでにインドに飛んでいた。
だが、美香の顔には不安の影が残っていた。
異国の地、それもインドという未知の国で生活していくこと。
2歳の子供を連れて、治安や衛生に不安がある国に移り住むこと。
そのリスクを思えば、簡単に首を縦には振れないだろう。
それでも一週間あまりの話し合いの末、
美香は静かに頷いた。
「分かったわ。家族でインドに行ってみましょう。……面白いかもね」
その言葉に、哲の胸は熱く震えた。
「よっしゃー! インドに行くぞ。冒険の旅の始まりだ」
彼は自分の心の声が少しずつ明瞭になっていくのを感じていた。
