さて、今回は【ヴェーゼンドンク歌曲集 Wesendoncklieder】について書いていきたいと思います。


ヴェーゼンドンクとは、ワーグナーのパトロンであった裕福な貿易商の名前です。彼の妻、マティルデ・ヴェーゼンドンク夫人が書いた詩にワーグナーが作曲したことから、この曲集名として知られています。第1稿が完成するおよそ半年前、ワーグナーはヴェーゼンドンク氏から作曲に専念できるよう邸宅を与えられます。すぐにヴェーゼンドンク夫妻もその隣に移り住みます。そしてまもなくして、ワーグナー(当時44歳)とマティルデ(当時29歳)は不倫関係になります。





ヴェーゼンドンク歌曲集の作曲と並行して、オペラ「トリスタンとイゾルデ」の作曲も進められます。禁断の愛が開かれてしまった男女の行く末と、当時のワーグナーの私生活が2つの作品に投影されていることは有名なことです。
事実、第3曲目「温室にて」は「トリスタンとイゾルデ」第3幕前奏曲に、第5曲目「夢」は第2幕の二重唱に転用されています。
マティルデ夫人の詩からは、愛の苦悩、成就せぬ愛、憧れと諦め、世間から隔てられた孤独などの比較的個人的な告白であるように感じます。しかしワーグナーの音楽からは、それらを二人だけの秘密にしておくというよりはむしろ、強い表出力で壮大で感動的な音楽に仕上がっています。

第1曲【天使 Der Engel】
前奏のピアノに現れる8分音符から付点4分音符へ上行する形が、曲全体を通して多用される。まるで立ち上る雲を想像させる。これに対して歌は長いフレーズでレガートが多い。歌とピアノの動きによって、心地よく、空の雲まで浮上し身を委ねているイメージが浮かび上がる。


【天使 Der Engel】の冒頭部分。


以下、日本語訳。

子どもの頃、私はよく天使の声を聞いた
天上の喜びを地上の太陽と交換するのだ

心が悩みに嘆き、渇望し、世界に身を潜めるとき
静かに血を流し涙に溺れ死するとき

そこに天使が舞い降りて来て
やさしく天上へ引き上げてくれる

そう、私のところにも天使がやってきて
光り輝く羽に乗って

全ての痛みから遠くへ導く
私の魂も今や天空へ上がっていく!

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第2曲目【止まれ!】
テンポの指示は、「Bewegt 動いて」。ピアノの動きは、細かい16分音符が回転を続ける。小さな回転がしだいに膨らんで大きな渦となる。次に8分音符が連なる形が出てきて、次に付点4分音符、最後は付点2分音符が主体となって、一つ一つの音の長さが少しずつ長くなっていく。それらは、詩の内容を忠実に音楽で再現されていることがわかる。


【止まれ! Stehe still!】冒頭部分。


また、ヴェーゼンドンク歌曲集全曲を通して感じることだが、どれも歌が歌い終わったあとの後奏が華やかで偉大で、存在感がある。それまでの音楽のアイデアや構想を受け継いで、全体を完成させている。

以下、日本語訳。

轟々とうなりを上げる時の車輪
永遠を切り裂け
広い宇宙の中の光り輝く天空よ
世界を取り巻いている
悠久の創造よ 止まれ
生成はもう充分だ 私を離してくれ!

留まれ、創造的な力よ
永遠に生み出される思考の泉よ!
呼吸を静止させよ 欲求よ静まれ
たった一秒でも沈黙してくれ
波打つ脈、打つことをやめよ
永遠の日の欲求を終止せよ!

そして幸福で甘美な忘却のうちに
全ての歓喜を思い為したい
瞳が瞳のうちに至福に飲み込まれるとき
魂が魂のうちに完全に身を沈めるとき
存在は存在のうちに再び見出し
全ての望みの終わりは知らされる
口は黙し
感嘆の沈黙に
心の内に願いは決して生み出さない
そして人は永遠の軌跡を知る
そしてお前の謎は解かれる、聖なる自然よ!
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続く…