ドレーンの入れ替え後、
排液の性状は戻った。
食事摂取量が少ない分、
以前より排液量は減少しているものの、
それなりに流れるようになった。
しかし、みるみる体力は低下してきている。
1/26(木)
訪問看護の方に、介護度upの申請をして、
訪問入浴なども利用できるようにしておいては?、と
アドバイスを受ける。
シャワー用の椅子なども借りることにした。
1/28(土)
38℃の熱があるが、本人の希望もあり、シャワー浴を行う。
本人はシャワーチェアに座り私が介助に入り行う。
体重を久しぶりに測ると51.1kg。
1か月前と比べて6kg減少している。
本当に痩せてしまった。
2/1(水)
父より、
「生きているのがしんどい」「楽になりたい」と言われる。
痛みはそこまででもないらしいが、息苦しさがつらい様子。
本日よりフェントステープ0.5mgを2枚貼付に増やす。
明日、訪看に相談することにする。
2/2(木)
飲水でむせがみられる。
アイスボックスならむせることなく7~8カケラ食べられるが、
摂取後、痰が増え、自己喀痰困難。呼吸も荒い。
しかし、髭剃りは自力でできる。
父に、楽になりたいならより強い麻薬を使って眠ることもできるが、
意識はウトウトしてしまうと思うと伝え、どうしたいか尋ねると、
2/20までは意識を保ちたいと言う。2/20に何があるのか尋ねると、
父が行っていた地域の仕事を息子である兄が引き継いだのだが、
それがきちんとできているか確認できるのがその頃なのだという。
そこまでもたないかな?、と聞かれたので、
お兄ちゃんは仕事ちゃんとやるし、今お父さんがつらいんだったら
我慢しなくてもいいと思うと伝える。
午前中のうちに、訪問看護師に来てもらい、父の現状を伝える。
痰の吸引機を借り、強い麻薬の使用について相談する。
親身になって考えてくれ、すぐに主治医にも連絡をとってくれて、
午後に改めて主治医と訪問看護師が来ることになる。
父より、地元で一番仲の良かった父の友達3人を呼ぶよう言われる。
ずっとずっと弱った姿を見せたくなくて、
なるべく人に会わなかった父。
いよいよ最期の挨拶をする気持ちになったようだ。
すぐに連絡を取り事情を話すと、13時に3人揃って来てくれた。
弱った父を見るなり泣きながら
「しょういち、がんばったなぁ…がんばった…」と
声をかけてくれたケンちゃん。
つられてこちらも泣いてしまう。その場にいられない。
ほかの2人も思い思いに父に声をかけてくれる。
父は声がかすれて聞き取るのが難しいが、
3人とも耳を傾けてくれる。
父は今までありがとうと3人に伝えたようだ。
みんな、もうその時が近いことを分かっている。
14時に主治医と訪問看護師とで今後について話をする。
父もベッド上で「楽になりたい」と主治医と看護師に伝える。
あまり効果はないかもしれないが、酸素も使うことにする。
主治医がその場で電話をかけると15時には業者が一式持ってきてくれて、
酸素2リットルをネーザルで吸入開始する。
そして、フェントステープは0.5mgを3枚へ増量。
ダイアップ座薬とアブストラル舌下錠も処方される。
夜、足のむくみが強いため、足浴をベッド上で行い、足の爪を切る。
ダイアップを使うと、トイレへ行くのが難しくなる可能性がある旨を父に説明、
オムツを着用してもらう。そして、ダイアップ座薬をいれる。
2/3(金)
朝、息苦しさはよくなったか尋ねると、父はうなずく。
眠れたようだ。声は出ない。
仕事へ行くが、午後になって、母より仕事場へ電話が入り、
父の様子がおかしいから帰ってきてほしいと言われ、早退する。
帰ると、父は手足を動かしている。
声をかけると、うなずくことはできるが、声が出ない。
「いたくない?」「息苦しさもない?」「つらいとこない?」と尋ねると
うなずく。「苦しい?」と尋ねるとうなずかないので、
意思疎通ははかれていると判断。
17時、アイスボックスなら食べられそうか尋ねると、うなずく。
一つ口に入れるとゆっくりではあるがシャクシャクと噛んで飲み込む。
いくつか食べると、もういいというので終わりにする。
しかし、麻薬が抜ける感じがなく、血圧も低い(77/50)ので、
隣に住む兄家族に声をかけて集まってもらう。
みんな父に声をかける。
父は声が出ないが、私が声をかけるとうなずく。
みんなと話しているとき、父の目から涙が一粒流れたのでティッシュで吹く。
いったん、夕飯を食べてこようと解散。
そして、19時過ぎ、父のところへ戻ると、
父は静かに息を引き取っていた。
正直、もう少し、漠然とあと1週間とか10日くらいはもつと思っていたので、
ショックだった。
でも、あとから振り返れば、
父は精神力が強い人だったので、
それまで気力だけで父らしさを保っていたところに、
麻薬でそこが強制的に緩み、一気に症状が出たのではないかと思う。
手足を動かしていたのも肝性脳症の症状だったろう。
父は、限界まで父らしくあろうと頑張っていたのだ。
結局、こちらが想定していた介護の生活は1日もなかった。
(オムツも結局一度も排泄なく交換してない)、
亡くなる前日まで歩いてトイレへ行き、
亡くなる前日に友人に会うときには震える手で櫛を持ち髪を整え、
亡くなる2時間前までアイスを食べ、
そろった家族の顔を見てその20分後には希望通り自宅から旅立った。
最後の最後まで、なんと意志の強い人なのだろう。
父には、看護師の娘がいるんだから、
つらくなったらそのときは全力で痛みをとってあげるから安心してね、
と言ったこともあったが、まさか本当に最初の座薬ひとつで
父の楽になりたいという希望を叶えてしまうとは、私も想定外だった。
でも、父の願いを確認しながらの闘病生活、
そこに対しての後悔は何もない。
私も父も母も、みんなそれぞれがやれることはやった。
祖父のように90過ぎまで長生きするつもりだった父には、
晴天の霹靂のがん発覚から3年3か月。
75歳で命が尽きることは、想定外だったと思う。
私たち家族にとっても、
こんなに早く父がいなくなってしまうことは想定外だった。
しかし、これはもう仕方がないことだ。
誰にでもそのときは訪れる。
いなくなってさみしいことには変わりないが、
後悔のない闘病・療養生活が送れたことは、
幸せなことなのだろう。
父が最期まで自立した姿のままで逝ってくれたことも大きい。
父の子供に生まれ、父の生きざまを見てきて、
尊敬しかない。
ちょっと一般常識がなかったりもしたけど、
家族のため、人のため、地域のため、
常に最善を尽くす人だった。
お父さんの子どもに生まれて、幸せだったよ。ありがとう。