久しぶりのブログ更新。

 

6月末に予定通り、近場へ2泊3日の家族旅行へ。

父の発熱が心配だったが、体調も安定しており、

父の大好きな濁り湯「加仁湯」で1泊、

奥日光の森のホテルで1泊と贅沢な宿を選んだ。

 

加仁湯では4回もお風呂に行き、

夕飯も朝食もびっくりするほど食べていた。

癌患者にはとても見えない、と母と笑っていたが、

その翌々週の7月13日の定期受診にて、

総ビリルビン値が2.5と上昇していることを知らされる。

元々日に焼けていてシミなども多いせいか、

黄疸が出ているとは見た目では分からない。

 

翌週20日にCTを撮り抗がん剤中止かどうかの判断をすると

Dr.に言われ、その日は帰宅。しかし、日に日に黄疸が強くなり

食欲も劇的に落ちていく。1週間で5キロほど体重が減少。

白目も黄色くなっていく。

 

20日のあとは27日にその検査結果を聞きに行く予定だったが、

それまでは体がもたないと思い、Dr.に電話にて相談し、

受診日を22日に前倒しにしてもらう。

 

入院準備をして22日受診。

やはり癌が大きくなっており、

胆管が「泣き別れ」の状態になっていると。

胆管が2本肝臓内に残存しているが、1本は排液用のドレーンを

入れられるが、もう1本は解剖学的にアクセス困難。

とりあえず減黄のため今から経皮的ドレーンをいれるため入院となる。

父が「これまでか…」とつぶやいた一言が耳に残る。

座して死を待つのみはしたくない、とできる標準治療は行ってきたが

ここにきて医師から引導を渡され、どれだけつらいだろう。

気持ちの準備はしてきたが、頑張ってきた父をみてきた私には

父のその一言がずっしりと心に重くのしかかる。

 

幸いにも、ドレーン留置後、見た目の黄疸は徐々に軽減。

発熱などのトラブルもなく、8月4日に退院。

今後は自宅で生活しつつ、緩和ケアに移っていくことになる。

 

がんセンターも緩和ケア病棟はあるが、高速道路を使って50分ほどの距離で

発熱時などの対応としては地元の病院に世話になる方がよい。

そのため、退院前日にソーシャルワーカーとの面談も行い、今後の転院先の

選定に入る。知り合いが去年同じように癌の親を自宅で看取っており、

そのときにお世話になったクリニックと訪問看護ステーションが

対応がよいと聞いていたので、可能ならばそこがよいと希望を伝えた。

そのクリニックから了承を得られたため、そこを主治医とし、同時に

何かあって入院などが必要になったときの緩和ケア病棟があるところの確保も

必要で、つくばメディカルセンターに紹介されることとなる。

 

父は、紹介先の受診日の日程調整の際も、急がなくてよいと言う。

「がんセンターとの繋がりを急いで切りたくない」と。

いわゆる癌末期で、がんセンターでできることはなく、

自宅療養にうつるということは分かってはいるものの、

見放されたような気持になる患者心理なのだろう。

家族や医療者に感情的になることもなく、淡々としている父だが、

その心の奥底には色々な思いがあるのだろう。非常に重い言葉だ。

 

入院中には、父の独身時代からの友人が夫婦で沖縄から

家族に会いに都内へ出てきているから、父に会いたいと言う。

しかし、コロナ第7波真っ只中。

父の免疫力も体力も著しく低下している今、会うわけにはいかない。

入院中であり医師からの許可も当然おりない。

そのため、ビデオ通話での再会としたが、

当日になってがんセンターまでその夫婦はやって来た。

母にだけでも会えればいいから、とのことだが、

すぐそこにいるのにタブレット越しの対面しか叶わず、

コロナさえなければと心底思った。

 

父のかすれた声がなかなか

聞こえないようで、聞き取りに相手が難渋する。

しかし、最後に父が涙声で「奥さんを大切に。

最期になるだろうけど、こうして話せてよかった。

会いにきてくれてありがとう」と伝え、

さすがに明るくポジティブな相手も泣いて言葉にならなくなる。

ビデオ通話であれば、沖縄だろうといつでもできるのだが、

普段マメに連絡をとっているわけではないので、おそらくこれが

今生の別れになるのだろう。

突然死に別れるのもツラいが、死に向かっている人をみるのもツラい。

癌は死ぬまでに時間があるから色々準備ができるからよいと言うが、

それも人によってはつらいだろう。

 

さて、今日8月17日、がんセンターへ行き、採血とレントゲン後に最後の診察。

総ビリルビン値は2.1と変わらず高値だが、これが限界でしょう、と。

父自ら、余命は…と医師に尋ねる。

医師は少し困って言いづらそうにしながらも、

抗がん剤をやめて3カ月から半年…個人差があるのでもっと早い人も、

予想より長く生きられる人もいます、と答える。

食欲は戻ることもなく、無理して食べても身体が栄養を吸収できる状態では

ないから、無理に食べなくてもよい、水が飲めなくなったら点滴してもらって

ください。今よりよくなることはありません、とはっきり父に伝える。

今までも何度か同じ質問をし、同じような答えを聞いてきているはずだが、

自分の置かれた状況が違うから、とらえ方も変わるのだろう。

 

帰りのサービスエリアで、もう余命3カ月だから高級なものを食べよう、と

600円のソフトクリームを頼んでいた。一口もらったら、とても滑らかで

美味しかったが、味覚異常になっている父にはおいしく感じないらしい。

 

黄疸が出始まったころから、冷たいものしか受け付けなくなっており、

冷たい果物やかき氷が食べやすいらしい。メイバランスやカロリーメイトのドリンクなら

どうにか流し込めるようだ。抗がん剤の影響か唾液が殆ど出なくなっていて

その影響もあるのかもしれない。(人口唾液サリベート使用中)

今更だが、ふわふわかき氷が作れるかき氷器をネット注文する。

 

父はあと何日生きられるだろう。

お腹の胆管ドレーンがあるため、大好きだったお風呂はへそ下までしかつかれない。

痩せてしまったため、介護用ベッドでも腰が痛くなるようだ。

何より食欲がない。

色々不便はあるが、痛みもなく、今のところどうにか日常生活は全て自力で出来ている。

この日々が一日でも長く続きますように。

 

ブログ更新がたまっていたため、話がまとまりもなく長くなってしまった。

 

闘病ブログとしては、このような残念な状況を伝えることは、

同じ病気の他の方にダメージを与えてしまうかもしれない。

でも、父は父らしく生きている。

74歳で、頭もクリアで、癌さえなければ恐らく会社員を続けていたであろう父の

無念もあるだろうが、父が癌から逃げず、生を全うしていることの記録が

誰かひとりでも役立つことがあれば幸いに思う。

 

胆管ドレーンの管理について、また時間があれば書きたいと思う。

両親は、私が看護師だからドレーンの管理なども全面的に信頼していて、

全て任せられることを心強く思っているようだ。

30歳のころ看護学校に進むことを決めたときは、父に猛反対されたが、

結果的に看護師になっておいてよかった。

少しは親孝行できているだろうと自負している。