脳内第二志望を関西の大学にした。
港町か水の都か。街とか大学自体を考えると港町、ただ卒業後とかを考えると水の都。ぬーん。
第一志望が某T大というのは変わらない。ただ、最近あそこに対する執着心がどんどん無くなっている。
何でだろうね。何か直感みたいなのがあそこへ行っても面白い人間があまりいなさそうと言ってるんだよ。
N高に来てわかったことが人間の面白さと学力は大抵反比例しているということなのも大きい。
そんなこと言える学力じゃないけど。
まぁ、最初から私は大学の「名前」じゃなくて学科の「中身」にしか興味がないのでこんな感じでフラフラしているのだろう。
結局は大学にずっと残って、この脳内に巣食う変な思想を突き詰められればそれで良いのだから。
こんなフラフラした調子で良いのか(反語)
……さて、落ち込んだときにこの一曲。
只今GReeeeNの「キセキ」を聴いている。
落ち込み気味のときにこの曲を聞くと泣きそうになる。
というか泣く。実際今涙腺が緩い。びっくりだ。でも、最後は何故かすっきりする。排出は大事です。
特にイントロのピアノとサビ直前のクレッシェンドにやられる。
歌詞がどうだから泣くのではなくて、この曲に纏わる思い出が涙腺を緩ませる。
この曲は中3の合唱コンのクラス自由曲だった。あと高1の選択音楽の授業で歌った。ここで重要なのは言うまでもなく中3の時の方である。
即ち、えんでんが田舎の片隅で一応の「優等生」を気取り、まだ世界が緋瑤亜とE中G3と家族とかの時、歌ったものだ。
言ってしまえばそれだけ。
それだけかい、と突っ込むなかれ。別に合唱コン自体にあまり思い出はない。せいぜい出張ってくる担任がうざったかったくらいだ。
それなら中2の時の方が思い出が多い(色んな意味で)
ただ、この曲を引き金に脳があの頃の記憶を自動再生してくるのである。それはもう暴力的、と表現して差し支えない程に。
そしてその記憶が大抵の場合暖かく、鮮明なため、何か、こう、よくわからないものが、脳ミソを麻痺させるのだ。
それは例えば、
緋瑤亜と某H氏と某O氏と某M氏とかと昼休みにやったバレーの円陣パスだったり、
放課後の基礎練の音だったり、
当時通っていた塾の雰囲気だったり(因みに私は帝都でこの塾を超える予備校の類をまだ見たことがない)、
合唱コンで伴奏を担当したブラバン副部長某T氏の手の動きだったり、
E中G3の謎の談義だったり、
学校帰りの田植えしたばかりの田んぼの匂いだったり、
緋瑤亜との共作ノートだったり。
まぁ、他に悪い思い出がいくらでも。
この辺まだ時間がそれほど経っていないことがわかる。
そんなこと言いつつ半ば懐古主義に陥りつつあるのは自覚している。
彼の地での出来事は未だ全ての判断の基準になっている。
実は本当の私は彼の地でこの時まで過ごしているのではないか?という謎の錯覚が起こることがある。
ここにいる人間や起こっている出来事は彼の地で眠っている私自身が見ている夢ではないかと。
その錯覚は日常の端々に潜んでいる。ある時は授業中、またある時は打ち上げ中。
その時、足元が崩れたような感覚になる。そして目の前の人間が誰か(一瞬だが)わからなくなる。
今現在まで私は彼の地に縛られている。脳内第二志望を関西の大学にしたのもやはり彼の地の影響が大きい。
別に彼の地に対して嫌悪感は全くない。しかし、ここ帝都で起こる全ての事象に彼の地でのことを当てはめようとする自分に嫌気がさすことがあるだけだ。
前述の錯覚が現れた時、目の前の人間の口から何か声が発せられると通常に戻る。
この時一番安心できる声の持ち主は――あまり認めたくないが、恐らく一番よく聞く声だからだろう――N高生の中では多分某水野なのだが、その多分最も安心できる人間に対する認識の出発点が「小学校からの親友の緋瑤亜と同じ名字の人」というのがどうも。
そして(性別は違うのに)某水野と緋瑤亜を重ねている自分がいる。最近はあまりないが。
つまり、どうしても何かN高にて新しい関係を構築する時それはE中の焼直しのようにとらえてしまうのだ。
N高にて新しい関係を構築する時私の脳は目の前の人間ではなく、その人間の向こうにある彼の地の人々をとらえようとしている。
このことに私は我ながらひどく嫌悪している。
しかし、どうしようもない。負のスパイラルまっしぐら。
あ、まとめ思いつかない。
とりあえず、支離滅裂はえんでんさんのデフォルトだよね!
絆創膏痒い
港町か水の都か。街とか大学自体を考えると港町、ただ卒業後とかを考えると水の都。ぬーん。
第一志望が某T大というのは変わらない。ただ、最近あそこに対する執着心がどんどん無くなっている。
何でだろうね。何か直感みたいなのがあそこへ行っても面白い人間があまりいなさそうと言ってるんだよ。
N高に来てわかったことが人間の面白さと学力は大抵反比例しているということなのも大きい。
そんなこと言える学力じゃないけど。
まぁ、最初から私は大学の「名前」じゃなくて学科の「中身」にしか興味がないのでこんな感じでフラフラしているのだろう。
結局は大学にずっと残って、この脳内に巣食う変な思想を突き詰められればそれで良いのだから。
こんなフラフラした調子で良いのか(反語)
……さて、落ち込んだときにこの一曲。
只今GReeeeNの「キセキ」を聴いている。
落ち込み気味のときにこの曲を聞くと泣きそうになる。
というか泣く。実際今涙腺が緩い。びっくりだ。でも、最後は何故かすっきりする。排出は大事です。
特にイントロのピアノとサビ直前のクレッシェンドにやられる。
歌詞がどうだから泣くのではなくて、この曲に纏わる思い出が涙腺を緩ませる。
この曲は中3の合唱コンのクラス自由曲だった。あと高1の選択音楽の授業で歌った。ここで重要なのは言うまでもなく中3の時の方である。
即ち、えんでんが田舎の片隅で一応の「優等生」を気取り、まだ世界が緋瑤亜とE中G3と家族とかの時、歌ったものだ。
言ってしまえばそれだけ。
それだけかい、と突っ込むなかれ。別に合唱コン自体にあまり思い出はない。せいぜい出張ってくる担任がうざったかったくらいだ。
それなら中2の時の方が思い出が多い(色んな意味で)
ただ、この曲を引き金に脳があの頃の記憶を自動再生してくるのである。それはもう暴力的、と表現して差し支えない程に。
そしてその記憶が大抵の場合暖かく、鮮明なため、何か、こう、よくわからないものが、脳ミソを麻痺させるのだ。
それは例えば、
緋瑤亜と某H氏と某O氏と某M氏とかと昼休みにやったバレーの円陣パスだったり、
放課後の基礎練の音だったり、
当時通っていた塾の雰囲気だったり(因みに私は帝都でこの塾を超える予備校の類をまだ見たことがない)、
合唱コンで伴奏を担当したブラバン副部長某T氏の手の動きだったり、
E中G3の謎の談義だったり、
学校帰りの田植えしたばかりの田んぼの匂いだったり、
緋瑤亜との共作ノートだったり。
まぁ、他に悪い思い出がいくらでも。
この辺まだ時間がそれほど経っていないことがわかる。
そんなこと言いつつ半ば懐古主義に陥りつつあるのは自覚している。
彼の地での出来事は未だ全ての判断の基準になっている。
実は本当の私は彼の地でこの時まで過ごしているのではないか?という謎の錯覚が起こることがある。
ここにいる人間や起こっている出来事は彼の地で眠っている私自身が見ている夢ではないかと。
その錯覚は日常の端々に潜んでいる。ある時は授業中、またある時は打ち上げ中。
その時、足元が崩れたような感覚になる。そして目の前の人間が誰か(一瞬だが)わからなくなる。
今現在まで私は彼の地に縛られている。脳内第二志望を関西の大学にしたのもやはり彼の地の影響が大きい。
別に彼の地に対して嫌悪感は全くない。しかし、ここ帝都で起こる全ての事象に彼の地でのことを当てはめようとする自分に嫌気がさすことがあるだけだ。
前述の錯覚が現れた時、目の前の人間の口から何か声が発せられると通常に戻る。
この時一番安心できる声の持ち主は――あまり認めたくないが、恐らく一番よく聞く声だからだろう――N高生の中では多分某水野なのだが、その多分最も安心できる人間に対する認識の出発点が「小学校からの親友の緋瑤亜と同じ名字の人」というのがどうも。
そして(性別は違うのに)某水野と緋瑤亜を重ねている自分がいる。最近はあまりないが。
つまり、どうしても何かN高にて新しい関係を構築する時それはE中の焼直しのようにとらえてしまうのだ。
N高にて新しい関係を構築する時私の脳は目の前の人間ではなく、その人間の向こうにある彼の地の人々をとらえようとしている。
このことに私は我ながらひどく嫌悪している。
しかし、どうしようもない。負のスパイラルまっしぐら。
あ、まとめ思いつかない。
とりあえず、支離滅裂はえんでんさんのデフォルトだよね!
絆創膏痒い