とんぼ玉が 無性に作りたくなった。。。
このまま 家に帰るか
薬局に泊まり込んで とんぼ玉制作するか。。。。
どうしようかと迷っていたら バシャールの 【丘の上の家】が 思い浮かんだ
よっしゃ 今夜は 泊り込みだ!

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丘の上の家 バシャール
もし、あなたが存在しているならば、あなたはここにいて当然な人なのです。
そして、あなたがここにいて当然なら、自分が一番やりたいことができるはずです。
すべてのものには、完璧な場所が与えられています。
でも「ワクワクを実行するには非常に難しい状況がある」と教えられてきたかもしれません それは状況そのものに力があるとする見方ですが、
こうした「状況」の中には「力」はありません。
それは単なる一つの定義づけであって、状況そのものは常に「中立」です。
なぜなら、「人生とは、あなたに降りかかってくるものではなく、あなたを通して創られるもの」であるからです。
起きている状況に対して、あなたがどのような意味づけをするか、どのような定義づけを するよう教えられてきたかということが、100%そこから創り出す結果を決定します
それでは現実をいかに定義づけし直すかについて話をしましょう。
あなたがとてもワクワクするようなものがあったとします。
たとえば、大きな家を持ちたいとしましょう。
大きな家を持つことはいいことだけれど、そのためには一生懸命働いて、お金をためなければならない、と小さい頃から教えられていたとします。
ですから、二十年か三十年もすれば家もなんとかなるだろうと考えます。
ここまで考えると、どういうわけか急にワクワクした気持ちがしぼんでしまったりします。
そのワクワクが保てたとします。
その大きな家を持つことが、自分にとって一番ワクワクすることなのです。
でも、一番ワクワクするものを手に入れるためには、まだ何らかの決まった方法でやらなければならないと思っていたとしましょう。
誰かに「なぜ?」と聞かれると、あなたは「世の中そういうものだよ」と答えます。
ですから、家を欲しいと思いながら、それを実現するために、貯金ができるように仕事を探しに行きます。でも、家を持つことに対してワクワクするほど、仕事に対してはワクワクしないのです。
そんな時、向こうから友人が歩いてきます。
そして、その友人が言います。
「久しぶりだね。どぉ、昼飯でも一緒に食わない?」
あなたは、これからやりに行こうと思っていたことよりも、友人と食事をするほうがよっぽどワクワクすると感じます。
『でも今食いに行ってたら、面接に間に合わない。そうすると仕事が決まらないし、金が入らないし、家を買う金がたまらない』、と考えます。
ところが彼はしつこく、
「腹が減ってるみたいじゃないか、すぐ行こう。何もあわてて今すぐ面接に行かなくたっていいだろう?」 としつこく誘ってくれます。
するとあなたは、
『うーん、たしかに腹はへってる。だけどだめだ、自分はヤッパリ仕事を見つけて家を買うんだ。それが一番ワクワクするんだ』と考え直します。
そして、友人から、
「家を持つことがワクワクすることなのか?」と聞かれると、あなたは当然、
「もちろんだ」と答えます。
でもその友人に、
「その仕事自体は、そんなにワクワクすることではないんだろう?」といわれると、
「言われてみれば、その通りだ」と思わず納得してしまいます。
「じゃあ、一番ワクワクすることを、今できないとしたら、二番目にワクワクすることをやるってのはどう? だから、飯食いに行こうよ。」と彼は言います。
『家を買うことが一番ワクワクすることだけど、それは今どうしようもない。でも、二番目にワクワクするすること、つまり、友人と食いに行くことはできるから、よし、行くか !』と、あなたは決めたとします。
それでも、
「余りながくはつきあえないよ。やっぱり面接に行くから」、と付け加えることを忘れません。そして友人と食事に行きます。こうして楽しい食事をして、つい時間のたつのを忘れてしまいました。少したって、すでに面接の時間を大きくオーバーしていて間に合わなかったことに気がつきます。あなたはガッカリしてしまいます。
しかし、友人が言います、
「でもきみは、自分がその瞬間にできる範囲で、二番目にワクワクすることをやっていたんじゃない、違うか?」
「それはそうだけど・・・、じゃあ、一番ワクワクする家のほうはどうなるんだ?」
「君は知らないようだけど、「ワクワクする気持ち」っていうのは、ちょうど糸のようにすべ てつながっているんだ。だから、一番ワクワクすることに対して、何をしていいかわからないときでも、その次にワクワクすることをしていれば、どういうわけかつながっていくんだ。」
「なにいってんの? そんなの現実的じゃないよ。」
「でも、僕はそれでいつもうまくいってるんだ。だから君もうまくいくんじゃないかと 思ったんだ。まあ、この話はまた後にしよう。」
その時、向こうから友人の知り合いが声をかけてきて、三人で食事をすることになりました。
「仕事の面接もすっぽかしちゃったし、金もないし、家なんか買えない・・・」と、今来たばかりの友人の知り合いに話します。
するとその友人は、
「君は家が欲しいのか?」と聞き返します。
あなたは続けます。
「丘の上の素晴らしい家を知っているけど、あんな家を欲しいなあと思って、理想の家のイメージに使っているんだ。」
三番目の友人が言います。
「君が言っているのは、あの向こうの丘の上の家のことか?」
「そう、あれだよ、あの家だよ。」
「ああいう家が欲しいんだな ?!」と三番目の友人が驚いたように言います。
そして続けて、
「なんて偶然なんだ ! ちょうど僕は向こう5年間海外出張で、その間、家の面倒を見てくれる人を探していたところなんだ !」
「へえ、そうなの?、で君はどこに住んでいるの?」
「君の言っていた、あの丘の上の家だよ。」
「えっ、あれが君の家?」
「そうなんだ。どうだろう、君があそこに住んでくれないだろうか?
友人の友人だから信頼できるし、きれいに使ってくれるだろうし、僕の代わりに家の面倒を見てくれれば、お金はいらない。
君が一番住みたい家に住む代わりに、僕の家の面倒を見てもらえないだろうか?」
すると、最初の友人が言います、
「ほら、僕はいつもこういう感じにうまくいくんだ。君もうまく行き出したじゃないか!」
ちょっとできすぎでしょうか?
でもそうではないのです。
単なる偶然でしょうか? でも偶然ではありませんね。
英語で、Co-Incidence は「偶然」という意味ですがそれは、Co (共同)で創った
Incidence(状況)なのです。
この世に偶然はありません。
ワクワクの糸をたどっていくとき、必ず次のワクワクが出てきます。最初は表面的には見えませんがあなたが自分に許しさえすれば、人生というものは常に、このように流れます。
「BASHAR 」 チャネル ダリル・アンカ
VOICE新書刊
から抜粋