happy ending - 明るい対立
とある国道上、もちょっとで信号あり。そしてその信号は車にとっちゃ赤なり。
信号機なしの横断歩道は、信号のほんの30メートル手前。信号待ちの車の列ももちょっとで、横断歩道に到達する。
私はっていうと、横断歩道で道を横切りたくて車が止まってくれるのか、あるいは、信号待ちの車の列が横断歩道のところまで伸びてくるのを待っている歩行者。
私のすぐ後に、ママと子供がやってきた。ママが息子ちゃんに言う、「ほら、早く手をあげて」。
小さなカラダで息子ちゃんは素直に手をあげて「渡らせてください」アピール。がどなたも止まらない。数メートル先でどのみち止まらなくちゃいけないのに。
そこに、流星のごとく、おじいちゃんが後ろから登場。
躊躇のちゅの字もなく、横断歩道を渡り切った。そのとき横断歩道にさしかかってた足立ナンバーの軽自動車は歩行者を渡らせてあげるつもりはなかったので、もう車体の三分の一は横断歩道の中。それでもおじいちゃんはぐんぐん行く。
ちょっとへっぴり腰で、後に続く、親子と私。
道のあちら側に渡った我々歩行者の歩みの方がよっぽど早くて、すぐさま軽自動車は我々歩行集団に抜かされる。
まっことによくある話しだ。よくある話しすぎて誰も話題にしない(笑)
歩行組追い越しの瞬間、おじいちゃんは見た。その車の中をあからさまに。
おじいちゃんの背中を見るようにして歩いていた我々にも、おじいちゃんの心情が、とってもわかりやすく伝わる。
なんでこの状態で止まることひとつもできないんだ?
ほらみてみることか、どうせ信号で止まることになるのはあからさまだったじゃないか!?
実際おじいちゃんの態度と背中はさらに語ってたね。
このこころ狭き、譲り合いの精神もない、馬鹿者よ。
それくらいは物語っちゃってたと思う。
非言語コミュニケーションとは恐ろしいもので、言葉よりも多くを語るのである。
気をつけたい。
<過去の関連記事>
nonverbal communication - 非言語コミュニケーション
ずーっとずっと、車の中を見据えて、車を追い越した後も、何度も振り返っては車の中をガン見していた。
まるで、そうすることによって、彼らにembarassmentを感じさせてやろうって思っているみたいに。
これってどうよ?って思う。
似たようなケースが下世話な世間にゃ蔓延中なり。
おじいちゃんが憤慨して、新聞に投稿すれば、おじいちゃんが正しい人的なスタンスで議論が行なわれるだろう。
「女、子供、老人のまつ横断歩道で、無理矢理横断歩道を突破したって3メートル先で信号を待つしかないのに、道を歩行者に譲れることのできないドライバーのこころの狭さに憤りを感じた。おもてなしの精神とは言うものの、日本の将来を憂う」、的な?
私がみたおじいちゃんの行動に、大手をふって、そーだそーだと思えないのは、横断歩道を渡ってからのおじいちゃんの行動だ。
怒りと、相手が気まずい思いを感じてくれるようにと頑張ってるプチ悪意があるように思えて。
つまり自分の負の感情を伝えて相手に反省をさせようとしているんだけど、それでご本人がすっきりするのかどうかは知らないけど、こんなんじゃ物事は解決しない。ディプロマシーが物事には必要なのだ。憂さを晴らしたいための行動か、事態を少しずつよくしていきたいがための行動か。
だとすると、申し訳ないけど、本日のケースははwin win situationならず、double loseだ。
ちーん。
結局、せっかく最終的には止まることになった車(止まらなければおじいちゃんをひいてしまうので)の方も、体当たりではあったけど、結局のところ道を渡ったおじいちゃんの方も、両方とも気分の悪い思いをしていることはきっと間違いない。
周りにいた親子も私も、あんまり気持ちがよいと思える状況じゃなかった。
つまり、誰も得していない。誰も尊敬されていない。誰もいい気持ちになっていない(その逆。後味の悪さよ)。ハッピーエンドの真逆をいっている。おじいちゃんも負けた。足立ナンバーも負けた。audienceになった居合わせた我々も負けた。こんなもったいないことはない。
こんなもったいないことはないんだけど、こういうことがしょっちゅう起きる環境っていうのがある。その場にいる多くの人が似たような人たちだったりすると、こういう無言の抗争があっちでもこっちでも起きる。passive agressivenessでもある。面と向かっての喧嘩はしない。議論もしない。「渡らせてくださいよ」と声に出さない。口で何か発していなければ、まるで何事もなかったことになるといわんばかりだ。だけども、そこで複数の人の気分や感情や気持ちやその場の空気や雰囲気が変化している。非常に閉鎖的でもある。非常に閉鎖的な感情表現だ。
運転をしていた中年おじさんとその奥さんだと思われる流行りの小型犬をかかえて助手席に乗っていた女性は、ずっと、おじいちゃんのがん見に気づかないように装っているみたいだった。
急にいぬに話しかけたりしていたから(笑)
閉鎖的が悪けりゃ、このおじいちゃんが、かみなりオヤジになって、このご夫婦に喝を入れればもちょっと後味が良かったといっているわけじゃない。
怒るか、passive agressiveで閉鎖的怒りのアピールをするかじゃなくて、もっとソフトで明るくてユーモアのセンスのある言い方がいくらでもあるんじゃないかってことが言いたい。つまり言う側にも多少なりとものスキルや機転が求められる。
そう言いたいのは、道の往来での取るに足りない出来事に対してだけじゃない。
会社社会の中でや、ご近所同士でも、先生と生徒っていう間柄でも、どんな人間関係についても同じことを言いたいなって思う。このスキルや機転がない人がどれだけ声を荒げたり、聞き手がぐさっと来るような言葉や表現をつかっても、物事は良い方向に動いて行かない。威圧的戦法か、懇願戦法かだ。どっちも使えないことが多いビジネスの世界では、ゆえの根回しとなる。明るい対立ができないからだ。明るい対立などないと思っているヒトが日本には多いんじゃないか?
でも、必ずある、明るい対立。信じて欲しい。
スタップ細胞明るい対立はあります。
ここからは私の憶測だけど、ポジティブアプローチ(悪い後味の残らないアプローチ)が多くの日本人が苦手だから、多分グローバルな交渉や外交に弱いんだと思う。
逆切れ状態で何かモノを申すとか、威圧的に発言してぶっちぎるとか、ヤジ的な言葉を口外するとかそういうネガティブな勢い見たいのがないと、言いたいことを相手に伝えることが上手にできないようなところが多くの日本人にはあるんだと思う。
だから、そんないけない態度や言動ができないような場所に出ると、もちろんそんな閉鎖的なアプローチが認められないことがわかっていれば、日本国内でまかり通っているような言動は許されないことは自明であるので、結局何も言えないか、言っても自分たちの利害に叶うような伝え方ができない。本人的には、「あれほど言ったんだけどなあ」って思っても、あっち側にはそれほど言われたとは思っていない。こっちの真意を見抜いてくれたとしても、すきだらけの詰め寄り方なのでかわされてしまう。
訓練が足りないんだからもっともだ。
ポジティブなアプローチが血肉化されてないんだから当然だ。
レティーファースともそうだけど、とってつけたように振る舞えない。こういうことはしっかりとnail downされてないと無理だ。
私がおばあちゃんになって、同じような状況で横断歩道を渡ろする時、だったら私はどんな風な行動をとれるおばあちゃんになりたいか?
お行儀よく、かつ物事を有る程度諦めて、じっと渡れる状況が来るまでお行儀よく待っているおばあちゃん。
止まってくれない車について嘆いたり、時代が変わったことを批判したりするおばあちゃん。
横断歩道に歩行者がある時は車は止まることが義務づけられていて、、、と理論的なおばあちゃん。
うーん、どれにもなりたくないなあ。
今、渡ろうとしているニンゲンがここにいることをしっかり運転手さんたちに伝わるようなパフォーマンスををして、渡らせてくれた運転手さんには、あちらが無視できないくらい顕著にお礼を言う。止まって良かったと思ってもらえれば、きっと次の機会にも止まってくれる運転手さんになる。
ヒトの善意には大げさすぎるくらい感謝を示す。
自分は渡りたいのに、渡らせてくれないのは、自分が横断歩道を渡りたいニンゲンとして運転手に映ってないのじゃないかと一旦疑ってみる。
よって、このおじいちゃんは、何度も振り返ってガン見をするんじゃなくって、
助かったよ、どーもね!っていう気持ちを相手に伝えて上げれば良かったのである。
頭を下げるなんていうことはする必要ない。
頭を下げることがいちばん正しい礼儀みたいに思っているヒトが多いけど、頭を下げて、相手の視線から逃げている人もたくさんいる。
おじいちゃんは、笑って渡れてラッキー、どーもね!とウインクしてあげればよかったのだ。
ガン見されちゃった方のご夫婦も、あちゃ!と思ったら、ガン見しているおじいちゃんに向かって窓を大きく開けて、気がつかなくて本当にごめんなさい。うっかりしていて止まってあげられなくて嫌な思いさせちゃいましたね。今回はゆるして~!とウインクすればいいのだ。
見られてなんかあらしませんという知らないフリをしなくても良いと思う。
こういう「おすまし」が日本人は得意。
そして、実はそんなポジティブな態度をされた方が、本人たちは自分たちをこっぽずかしかったと自省するのである
ネガティブで閉鎖的で慢性的にイライラしている人たちにたっくさん囲まれて生きて行かなくちゃ行けない人がたくさんいる。なもんだから、しょっちゅう嫌な言い方で何かを言われなくちゃいけなかったり、差別的な言い方をされたり。そんな毎日が続いたらだれでもいやになってしまう。
そして気づいたら、同じネガティブ集団の仲間入りをしてしまう。
多分天真爛漫で誰にでも明るく挨拶をしていた田舎子ちゃんは、東京に来てずっとこんなネガティブ集団に囲まれて、嫌な思いをたくさんしているうちに、電車の中で隣の人の立ち位置が気に入らないと、ショルダーバックをプッシュしてあっち行けアピールをする陰険子ちゃんになっちゃったりする。
1日1個か2個、この根暗で、閉鎖的な負のスパイラルをひとりひとりが切っていったら、東京も地方も、もっと気持ちのよい風が通る居場所になるんじゃないかなあ。
最悪のケースでは、格差社会の広がりと共に、エリアごとに行動期間のレベルが顕著に別れるようになる。こういう気まずい場面とか、民度の低さを目の当たりにしたくない富裕層は、民度の高いエリアに集中するようになる。民度の低くない低所得の人たちはそれなりの場所に密集することになる。それなりの場所ではいやーなことを言ってばっかりいる人に遭遇する機会が増えて、最終的には自分もフてた人になる。しょっちゅうつまらないいざこざや感情論のぶつかりあいで煩わされることになる。閑静な住宅街では、人が道を譲り合い(after youの実践)、そうじゃない地域では、我先に精神のもと、人が競り合う。そうなったらさもしいよ。日本はあんまりエリア分けをしないところが美徳のひとつなんだから。
おじいちゃんよ、私も思った。横断歩道で止まらずに行ったってどのみち数メートル先で止まらなくちゃいけないのに、横断歩道で歩行者を待たせておく意味はあんまりないと。だからあなたの心情はよくわかる。
次から次へと徐行してくる車がどうして1台も止まれないのかと。
でも、そこでネガティブなリアクションをとってしまうと、負のスパイラルは断ち切れないどころか、自分も同じ穴のむじなと化してしまう。
苔のむすまで、ニッポン人がもっと楽しそうに暮らしていけるニッポンになって欲しいからね。
とある国道上、もちょっとで信号あり。そしてその信号は車にとっちゃ赤なり。
信号機なしの横断歩道は、信号のほんの30メートル手前。信号待ちの車の列ももちょっとで、横断歩道に到達する。
私はっていうと、横断歩道で道を横切りたくて車が止まってくれるのか、あるいは、信号待ちの車の列が横断歩道のところまで伸びてくるのを待っている歩行者。
私のすぐ後に、ママと子供がやってきた。ママが息子ちゃんに言う、「ほら、早く手をあげて」。
小さなカラダで息子ちゃんは素直に手をあげて「渡らせてください」アピール。がどなたも止まらない。数メートル先でどのみち止まらなくちゃいけないのに。
そこに、流星のごとく、おじいちゃんが後ろから登場。
躊躇のちゅの字もなく、横断歩道を渡り切った。そのとき横断歩道にさしかかってた足立ナンバーの軽自動車は歩行者を渡らせてあげるつもりはなかったので、もう車体の三分の一は横断歩道の中。それでもおじいちゃんはぐんぐん行く。
ちょっとへっぴり腰で、後に続く、親子と私。

道のあちら側に渡った我々歩行者の歩みの方がよっぽど早くて、すぐさま軽自動車は我々歩行集団に抜かされる。
まっことによくある話しだ。よくある話しすぎて誰も話題にしない(笑)
歩行組追い越しの瞬間、おじいちゃんは見た。その車の中をあからさまに。
おじいちゃんの背中を見るようにして歩いていた我々にも、おじいちゃんの心情が、とってもわかりやすく伝わる。
なんでこの状態で止まることひとつもできないんだ?
ほらみてみることか、どうせ信号で止まることになるのはあからさまだったじゃないか!?
実際おじいちゃんの態度と背中はさらに語ってたね。
このこころ狭き、譲り合いの精神もない、馬鹿者よ。
それくらいは物語っちゃってたと思う。
非言語コミュニケーションとは恐ろしいもので、言葉よりも多くを語るのである。
気をつけたい。
<過去の関連記事>
nonverbal communication - 非言語コミュニケーション
ずーっとずっと、車の中を見据えて、車を追い越した後も、何度も振り返っては車の中をガン見していた。
まるで、そうすることによって、彼らにembarassmentを感じさせてやろうって思っているみたいに。
これってどうよ?って思う。
似たようなケースが下世話な世間にゃ蔓延中なり。
おじいちゃんが憤慨して、新聞に投稿すれば、おじいちゃんが正しい人的なスタンスで議論が行なわれるだろう。
「女、子供、老人のまつ横断歩道で、無理矢理横断歩道を突破したって3メートル先で信号を待つしかないのに、道を歩行者に譲れることのできないドライバーのこころの狭さに憤りを感じた。おもてなしの精神とは言うものの、日本の将来を憂う」、的な?
私がみたおじいちゃんの行動に、大手をふって、そーだそーだと思えないのは、横断歩道を渡ってからのおじいちゃんの行動だ。
怒りと、相手が気まずい思いを感じてくれるようにと頑張ってるプチ悪意があるように思えて。
つまり自分の負の感情を伝えて相手に反省をさせようとしているんだけど、それでご本人がすっきりするのかどうかは知らないけど、こんなんじゃ物事は解決しない。ディプロマシーが物事には必要なのだ。憂さを晴らしたいための行動か、事態を少しずつよくしていきたいがための行動か。
だとすると、申し訳ないけど、本日のケースははwin win situationならず、double loseだ。
ちーん。

結局、せっかく最終的には止まることになった車(止まらなければおじいちゃんをひいてしまうので)の方も、体当たりではあったけど、結局のところ道を渡ったおじいちゃんの方も、両方とも気分の悪い思いをしていることはきっと間違いない。
周りにいた親子も私も、あんまり気持ちがよいと思える状況じゃなかった。
つまり、誰も得していない。誰も尊敬されていない。誰もいい気持ちになっていない(その逆。後味の悪さよ)。ハッピーエンドの真逆をいっている。おじいちゃんも負けた。足立ナンバーも負けた。audienceになった居合わせた我々も負けた。こんなもったいないことはない。
こんなもったいないことはないんだけど、こういうことがしょっちゅう起きる環境っていうのがある。その場にいる多くの人が似たような人たちだったりすると、こういう無言の抗争があっちでもこっちでも起きる。passive agressivenessでもある。面と向かっての喧嘩はしない。議論もしない。「渡らせてくださいよ」と声に出さない。口で何か発していなければ、まるで何事もなかったことになるといわんばかりだ。だけども、そこで複数の人の気分や感情や気持ちやその場の空気や雰囲気が変化している。非常に閉鎖的でもある。非常に閉鎖的な感情表現だ。
運転をしていた中年おじさんとその奥さんだと思われる流行りの小型犬をかかえて助手席に乗っていた女性は、ずっと、おじいちゃんのがん見に気づかないように装っているみたいだった。
急にいぬに話しかけたりしていたから(笑)
閉鎖的が悪けりゃ、このおじいちゃんが、かみなりオヤジになって、このご夫婦に喝を入れればもちょっと後味が良かったといっているわけじゃない。
怒るか、passive agressiveで閉鎖的怒りのアピールをするかじゃなくて、もっとソフトで明るくてユーモアのセンスのある言い方がいくらでもあるんじゃないかってことが言いたい。つまり言う側にも多少なりとものスキルや機転が求められる。
そう言いたいのは、道の往来での取るに足りない出来事に対してだけじゃない。
会社社会の中でや、ご近所同士でも、先生と生徒っていう間柄でも、どんな人間関係についても同じことを言いたいなって思う。このスキルや機転がない人がどれだけ声を荒げたり、聞き手がぐさっと来るような言葉や表現をつかっても、物事は良い方向に動いて行かない。威圧的戦法か、懇願戦法かだ。どっちも使えないことが多いビジネスの世界では、ゆえの根回しとなる。明るい対立ができないからだ。明るい対立などないと思っているヒトが日本には多いんじゃないか?
でも、必ずある、明るい対立。信じて欲しい。
ここからは私の憶測だけど、ポジティブアプローチ(悪い後味の残らないアプローチ)が多くの日本人が苦手だから、多分グローバルな交渉や外交に弱いんだと思う。
逆切れ状態で何かモノを申すとか、威圧的に発言してぶっちぎるとか、ヤジ的な言葉を口外するとかそういうネガティブな勢い見たいのがないと、言いたいことを相手に伝えることが上手にできないようなところが多くの日本人にはあるんだと思う。
だから、そんないけない態度や言動ができないような場所に出ると、もちろんそんな閉鎖的なアプローチが認められないことがわかっていれば、日本国内でまかり通っているような言動は許されないことは自明であるので、結局何も言えないか、言っても自分たちの利害に叶うような伝え方ができない。本人的には、「あれほど言ったんだけどなあ」って思っても、あっち側にはそれほど言われたとは思っていない。こっちの真意を見抜いてくれたとしても、すきだらけの詰め寄り方なのでかわされてしまう。
訓練が足りないんだからもっともだ。
ポジティブなアプローチが血肉化されてないんだから当然だ。
レティーファースともそうだけど、とってつけたように振る舞えない。こういうことはしっかりとnail downされてないと無理だ。
私がおばあちゃんになって、同じような状況で横断歩道を渡ろする時、だったら私はどんな風な行動をとれるおばあちゃんになりたいか?
お行儀よく、かつ物事を有る程度諦めて、じっと渡れる状況が来るまでお行儀よく待っているおばあちゃん。
止まってくれない車について嘆いたり、時代が変わったことを批判したりするおばあちゃん。
横断歩道に歩行者がある時は車は止まることが義務づけられていて、、、と理論的なおばあちゃん。
うーん、どれにもなりたくないなあ。
今、渡ろうとしているニンゲンがここにいることをしっかり運転手さんたちに伝わるようなパフォーマンスををして、渡らせてくれた運転手さんには、あちらが無視できないくらい顕著にお礼を言う。止まって良かったと思ってもらえれば、きっと次の機会にも止まってくれる運転手さんになる。
ヒトの善意には大げさすぎるくらい感謝を示す。
自分は渡りたいのに、渡らせてくれないのは、自分が横断歩道を渡りたいニンゲンとして運転手に映ってないのじゃないかと一旦疑ってみる。
よって、このおじいちゃんは、何度も振り返ってガン見をするんじゃなくって、
助かったよ、どーもね!っていう気持ちを相手に伝えて上げれば良かったのである。
頭を下げるなんていうことはする必要ない。
頭を下げることがいちばん正しい礼儀みたいに思っているヒトが多いけど、頭を下げて、相手の視線から逃げている人もたくさんいる。
おじいちゃんは、笑って渡れてラッキー、どーもね!とウインクしてあげればよかったのだ。
ガン見されちゃった方のご夫婦も、あちゃ!と思ったら、ガン見しているおじいちゃんに向かって窓を大きく開けて、気がつかなくて本当にごめんなさい。うっかりしていて止まってあげられなくて嫌な思いさせちゃいましたね。今回はゆるして~!とウインクすればいいのだ。
見られてなんかあらしませんという知らないフリをしなくても良いと思う。
こういう「おすまし」が日本人は得意。
そして、実はそんなポジティブな態度をされた方が、本人たちは自分たちをこっぽずかしかったと自省するのである

ネガティブで閉鎖的で慢性的にイライラしている人たちにたっくさん囲まれて生きて行かなくちゃ行けない人がたくさんいる。なもんだから、しょっちゅう嫌な言い方で何かを言われなくちゃいけなかったり、差別的な言い方をされたり。そんな毎日が続いたらだれでもいやになってしまう。
そして気づいたら、同じネガティブ集団の仲間入りをしてしまう。
多分天真爛漫で誰にでも明るく挨拶をしていた田舎子ちゃんは、東京に来てずっとこんなネガティブ集団に囲まれて、嫌な思いをたくさんしているうちに、電車の中で隣の人の立ち位置が気に入らないと、ショルダーバックをプッシュしてあっち行けアピールをする陰険子ちゃんになっちゃったりする。
1日1個か2個、この根暗で、閉鎖的な負のスパイラルをひとりひとりが切っていったら、東京も地方も、もっと気持ちのよい風が通る居場所になるんじゃないかなあ。
最悪のケースでは、格差社会の広がりと共に、エリアごとに行動期間のレベルが顕著に別れるようになる。こういう気まずい場面とか、民度の低さを目の当たりにしたくない富裕層は、民度の高いエリアに集中するようになる。民度の低くない低所得の人たちはそれなりの場所に密集することになる。それなりの場所ではいやーなことを言ってばっかりいる人に遭遇する機会が増えて、最終的には自分もフてた人になる。しょっちゅうつまらないいざこざや感情論のぶつかりあいで煩わされることになる。閑静な住宅街では、人が道を譲り合い(after youの実践)、そうじゃない地域では、我先に精神のもと、人が競り合う。そうなったらさもしいよ。日本はあんまりエリア分けをしないところが美徳のひとつなんだから。
おじいちゃんよ、私も思った。横断歩道で止まらずに行ったってどのみち数メートル先で止まらなくちゃいけないのに、横断歩道で歩行者を待たせておく意味はあんまりないと。だからあなたの心情はよくわかる。
次から次へと徐行してくる車がどうして1台も止まれないのかと。
でも、そこでネガティブなリアクションをとってしまうと、負のスパイラルは断ち切れないどころか、自分も同じ穴のむじなと化してしまう。
苔のむすまで、ニッポン人がもっと楽しそうに暮らしていけるニッポンになって欲しいからね。