face - 顔


生物学上ひとりひとつずつ、顔をもっているわけだけど得意げ
(でもって社会学上は、ひとりひとりがいろんな顔をもって生活しているわけだけど)


日本のようにあんまりいろ~んな瞳の色や肌の色が混じりあっていない国もあるし、もっと様々なルーツのヒト達が一緒に『アメリカ人』としてだったり、『ブリティッシュ』として暮らしてたりするところもある。日本にも在日の中国の人も韓国の人も台湾の人もアメリカの人その他の人も様々に暮らしてたりするのも事実だけど、やっぱり、その辺の多様性のレベルは諸外国に及ばない。

ちょっと想像してみても、例えば先代が日本に移民してきたアフリカ系にルーツをもつヒトが総理大臣になったりは当分しないだろう。1世紀先でもないかもね!?
こうして、だいぶ長い間、この島で暮らす「日本人」っていうくくりの我々は、派手に外部と混じりあわずに生きて来た。生きて来てしまった。だからいくら日本国籍をもっている人でも、見た目が違ったり出所が違ったりする人のことをどうしても日本人と呼べなかったりしてる。


高校生が、『私たちってXX民族じゃん、でも隣に座っているみーこちゃんはYY民族出身なんだよね~』なんて放課後レポートをママにはしないだろうし。弥生民族、縄文民族なんて話しはあまりにも太古の昔すぎて、例えば私が弥生組で、あなたが縄文組だとて、コンフリクトの要因にはならない(笑)

多様なルーツをもつヒト達が一緒にくらして行く土壌の中で、顔とか苗字とかって、そのヒトのルーツとかバックグラウンドとかをほのめかす"clue"になるわけだ。自分のアイデンティティを認めてもらった上に、権利を勝ち取って生きて行くっていうのがみそなわけで、例えば、極東アジアからの移民がこぞって、顔を西洋風に美容整形でいじったりして新天地にとけ込もうなんて作戦はもたないはず。念のため言いますけど、皆無だって言ってるんじゃあらしません。


大統領選とか知事選とかで、より好印象を与えるためにフェースリフトをするのと、肌の色を変えちゃうようなルーツをdisguiseするようなことをするのとはちょいと訳が違う。

メディアの中だけじゃなくて、巷でも周りでも、本当に、人工的に手を加えられた顔をみることが多くなった。必要悪といえば必要悪だな。だんだん目がおかしくなってきて、極東アジア人の顔の基準っていうのがずれてくる。

去年メキシコでのんべんだらりとホリデーを過ごしていた時、2年前には滅多にいなかった極東アジア人の姿をだいぶ見るようになった。ニューヨーカーのボーイフレンドと来ている中華系の女の子、家族と彼氏と友達カップルと来ていた中華系の女の子、などなど。

皆さんアメリカで生まれたセカンドジェネレーションなのか、身振りもそぶりもアクセントもまるでアメリカ人だったりもした。中華系のルーツをもつアメリカ人として育って来たのかもしれない。


面白いなって思ったのが、こういう子達こそ、めっちゃアジア顔をキープしているのである。
メキシコのリゾートで居合わせたこの子たちだけじゃない。
だいたいにおいて、国外、あるいはアジア圏外で暮らすアジアのルーツをもつ子達が、鼻を整えたり、目を大きくしたりしてるのってあんまり見たことがない。そりゃあ中にはいるだろうけど。
私の邪推だけど、逆にこの子たちは、アジア顔をきっと武器にしてんだなって思ったね(笑)


結局そういうことなんじゃね?


って思う。


狭いところで生きていると、自分のルーツなんて考えない。自分のルーツよりも、自分がもっと人生の中で有利になることへの方が強い関心が向いてしまう。隣のみーこちゃんよりも、外見的にかわいくなったり好印象になったりして、あるいは隣の太郎くんよりも、外見的にかっこよくなったり好印象になったりして、恋愛や就職や、その他、ヒトから選ばれる立場になったときに、有利でいたいと思うエゴは誰にでもある。そこにあるのは切実な乙女心だったり、コンプレックスだったりして、何も自分の祖先を冒涜するような気持ちや、極東人としてのアイデンティティを混乱させようとするつもりはきっとないと思う。考えて行動する焦点が個人だったり狭かったりするかだけでそこに悪気もなにもないわけだ。本人的には、必死っていうのもあるだろうし。念のため言うけど、私はいつも余裕でそんな必死さを感じたりしたことなく生きて来たかっていうともちろんそうじゃない。


私は、プールサイドで、本を片手にカクテルを飲みながら、
本当はどんなルーツをもつんだかわからない(面と向かって聞いた訳じゃないから)、極東アジアのルーツをもつビキニの女の子たちを無責任に眺めて、本当にチャーミングだと思ったね。
可愛いとかきれいだとか審美的に思っただけじゃなくて、足に地をつけた逞しさや強さ、プライドなんかも感じたね。
西洋人の遺伝子に比べると、短い足も、アーモンドアイズも、鼻ぺちゃさんなところも、幼く見える顔立ちも、小さめの胸も、みーんな可愛いって思ったね。自分の『手持ち』は西洋人のそれとは違う上で、西洋圏で根をはって生きてってるわけだ。自分の遺伝子の中で持ち合わせていないものを、人工的に見繕って来てはりあったってしょうがないだろって思う。


問題は、美がインターナショナル化しちゃってて、西洋人が唇をあつくしたり、東洋人が目をでかくしたりと、なにがなんだかわかんなくなっちゃってきてるところ。これじゃあ、年頃の子たちも混乱する。混乱したくなるのも無理ないが、そこはぐっと留まって。血迷わない健全な脳みそと魂を保持して欲しい。そのヘルシーな脳みそと魂の保持を我々大人が出来る限りサポートしたい。


一方、日本でテレビをみていると、視聴者側の目がハーフ顔的な顔立ちに慣れてしまってこれが水準的な日本人の顔だと少しずつ錯覚にとらわれてくる。危ない危ない。
日本の乳幼児や保育園児をみて、『そうだよね~、そうでしょう、そうだったよねぇ、私たちって』と思い返す(笑)
ハーフじゃなくても日本人としてもだいぶ民族を超えた顔が当たり前にお目見えするようになってきた。こてこてのコケイジャンよりもずっとくっきり二重だったりするわけないのだ。
目の二重って、結局しわであって、目をあけた時にできるしわで、整形美容による形状記憶じゃないのだ(笑)
しわだからのびたりしわになったりするわけだ。


表情に乏しい顔とも言える顔だけど、私は、極東アジア人の、ちょっと息をこらして見てないと、ちょっとした心の動きを見逃してしまいそうになる、too obviousじゃない顔が好きだ。これはおそらく、『東洋の神秘』に一役かっている要因だろう。瞳の奥を覗き込んで何がこのヒトの心の中にあるんだろうって謎解きをしたくなるような顔が好きだ。
私は、南アジアのヒト達の、情にあつそうなあつめの唇や、人なつっこさを表すような低めの鼻が好きだ。インドやパキスタン系のヒト達のきりっとした鼻(鼻ピアスの似合う鼻)、端正な横顔なんかも好きだ。アフロカリビアン系のヒトの、褐色の肌と、めっちゃ明るそうな風貌が好きだ。
結局美しさってステレオタイプなもんばかりじゃないし、あったとてそれは1つじゃない。頑張るのなら、自分がしょってるルーツの美をいかに知らしめるかに尽力したし。これ基本ね。多分この基本に端を発してミスユニバースが生まれたんじゃ?それぞれの民族のもつ美しさを愛でるという祭典。まあ、なんで女性だけが品定めされる側なのかって思うけど、生まれたころは今よりもずっと男性社会だったんだろうから仕方ない。


過去に一斉を風靡したヒト達の顔って見返してみると、今のアイドルとかテレビに出ているヒト達に比べたら全然顔が端正じゃなかったりする。でも、胸をきゅんとさせてくれたり、切ない気持ちにさせてくれたり、目が離せなくなったりされちゃう力がある。そこに儚さがあったりもする。多分これが神様がつくったいろんな組み合わせの奇跡なんだと思うわ。そしてそこから生まれてくる表情の数々。
いくら端正につくられていてもやっぱりニンゲンが執刀したりして作り上げた顔には出せないパワーを持っている。ヘアカタログのモデルさんみたいで、皆こぎれいで美人でまとまっちゃいるけど、頭や心に残らない。パタンとカタログを閉じると、どの顔も浮かんで来ない。


きれいにまとまってる女性が近くにいたら、きっと世の男性はほっとけないだろう。ほっておけない男性の中に、気の合うヒトや、恋愛の相手になれそうなヒトがいたらラッキーだ、確かに。ヒット率を上げるためにとりあえずきれいにまとまっておくという作戦もありだろう。使えるものは全部駆使して欲しいものを手にいれていけばいい。
だけど、(男性側に)選ばれて、(男性側から欲しいものを)与えてもらうっていうのが根底にあるっていうのであれば、それはどうかな。
(女性側が)自分が選んで、自分が手に入れて行くっていうスタンスをもつことに日本の社会も個人の考えもちょっと発展途上だと思う。
制度やしくみを改正しても個人の意識が追いつかなければ、状況は変わらない。



極東アジア圏外の、コケイジャン(西洋人)と恋愛をしたりしている時に、
撮った写真をみて、この写真が好きだとか、これはとってもよく撮れているといってくれるような写真に、(特に初期の段階で)ずれがあることを感じたヒトは、多いんじゃなかろうか?
自分なりに、お目目ぱっちり顔とか目、お澄まし顔で笑って目がなくなっちゃわないようにした顔なんかは、選抜に入らない。
自然で、目の周りに余計な力が入ってない顔を、よく撮れているといって、引き延ばされ額縁にいれられたり、親戚家族にばらまかれたりする叫び
当初はほんとにやめとくれって思った。長距離連恋愛をしている時に、先方がイギリスから電話で『一緒に撮った時の写真で気に入った写真があって、それを引き延ばして壁にはって毎日みてる』的なことを言った。ケツの青い当初の私は、さぞかし『かわゆく』撮れた写真のお澄ましちゃん写真が飾ってあるのだろうと思っていたが、しばらくしてイギリスを訪ねて、写真をみてぶっとんだ。あれが、私のカメラで撮られた写真だったとしたならば、絶対にお蔵入りにしていたはずだったからだ。よりによってなんでこれ?ってな写真だった(笑)


多分ボーイフレンド(後に夫)は、私の顔のつくりが云々っていうんではなくって、彼のとなりでいかにも楽しそうにしているってな写真だったもんだから、この写真を引き延ばして毎日眺めていてくれたのだろう。


- そんなもんである。