Bosnia - ボズニア
突拍子がなくて申し訳ないけど、ちょびっとボズニアのヒト達について。
内戦からほぼ20年がたつボズニア。日本語表記はボスニア?それともボズニア?
何度かドキュメンタリ番組でサラエボの様子や、内戦の爪痕なんかを見たけれど、ボスニア人の友達っていうのはいないし、直接なにかボズニア人やボズニア事情が肌から直に入って来た~ということには未経験だ。
でも今度のワールドカップ出場が決まったりして、あんなに過酷な内戦を経て、ワールドカップに出場するなんて、本来のニンゲンのもつ強さを感じます。resilientだなーって。生きるのに大変な国や人々にとっちゃ~、スポーツみたいなもんで強くなるなんていうのは二の次だもんね。
私は観ていないけど、
ボスニアの少数民族ロマの家族に起こる悲劇を描いたドキュメンタリ映画が去年公開されましたね。
ダニス・タノヴィッチ監督の最新作「鉄くず拾いの物語」ざます。
<関連リンク>
鉄くず拾いの物語オフィシャルサイト
『鉄くず拾いの物語』が問いかけるもの(ニュースウィーク日本版のダニス・タノヴィッチ監督へのインタビュー
年末にちょいと道草を食ったアメリカで、ボズニアン・パワーを感じた。
ビジネスマンとして働いていた友達、超スマートな奥さんのサポートもあって、早期退職し、VPから地元の小学校で代理教師のボランティアに転じて、毎日がずっと(大企業で働いていた頃のよりも)充実していると話してた。ニンゲンの幸福感は周囲からしてもらうことによって得られるのよりも、自分が周りに差し出すことで得られる幸福感の方がずっと強い。
ってなわけでこの友達ボランティア・ワークを楽しんでいるのだけど、この友達がボランティアで代理教師をつとめる学校、約80%がボスニア人なのだそうだ。残りの20%のうち大多数はベトナム人で、あとはちらほら中華系の子がいたり、韓国系の子がいたりなのだそう。
(だからもうフルネームは覚えないと決めているとか
)
なんてエピソードを聞いても、どれだけボズニアからの移民が多いか。またどれだけアメリカが新しい移民を受け入れているかが判る。こういうのは、都市や州によっての政策によって行なわれてたりして、特定の都市や州や地域が、特定の国からの移民の受け入れに積極的だったりするんだそうだ。
こうしてアメリカっていう国は、パワーのrefillを繰り返してきた国なんだろうね。
2世代目くらいからは、皆が「アメリカ人」になって、同じ土俵で同じチャンスをつかんでいく。
そういう意味では閉鎖度は低いんじゃないかな。入って来た方にも受け入れた方にも。
(韓国系や中華系の生徒は、アメリカの教職者はほとんど口を揃えて、優秀だっていうけど)ボスニア系の生徒ちゃんたちはどんな感じなの?と聞くと、『ちゃんと学校には来る』っていうのと、『親が学校に任せっきりにせずに、教育に参加をしている』とのフィードバック。ふ~ん。
実は私の目が肥えていないだけで、まちにもそこここにボズニアからの移民のヒト達が元気に働いているよう。靴屋で靴を大人買いした時に、reward cardをつくらないかと勧めて来たレジにいた店員さん。ここに住んでないからいらないといっても、熱心に勧めてくる。いらないっちゅーに
って言っても、こーんなに買物したんだから、もったいないよー。住んでなくても今度来る時があるかもしれないし、オンラインでもショッピングできるしーと、つぶらな瞳。まるで商売やノルマ故のアドバイスじゃなくて、心底私を思って、まるで友達として助言してくれているかのよう。
この若くて可愛いお兄ちゃんもボズニア人だった。
ちなみに靴屋さんのとなりにあったネイルサロンで手足のケアをしてもらったけど、こちとら、ベトナム人のママとアメリカ人のパパをもつ女性だった。
例えばお年寄りの暮らすお家にいって話し相手になってあげたり、ちょっとした身の回りの世話をしてあげたりというようなヒトをアメリカ人が探す時にも、ボズニア人は信用があるよう。
私がお邪魔した都市では、とても肯定的に受け入れられていて、勤勉さや、これといった問題を起こさずに、地域に根付いているような印象を受けた。
アメリカではこの都市に限らず、いろんなところで、ある一部の地域で一斉に開発が進み、素敵な物件が建ち、そのエリアめがけて都市部からまず、ヒトが郊外へと移り住む。つまりsuburbanデビューね
、そうするとsuburbanデビューしちゃったurbanピープルがかつて住んでいたエリアがぽっかりと空いてしまう。社会的傾向としても郊外に住むことがステータスだったりしちゃったもんだから、都市部の居住エリアの不動産価値が下落する。物件が安くなると、今まではそのエリアに住めなかった所得層のヒト達が住み始めるという世代交替を繰り返していくうちに、かつては栄えた都市部の居住エリアの中にはほとんどの家が空き家状態なんてエリアがポツポツと出始める。うまみのあるエリアなら再開発をして、おしゃれな飲食店の並ぶストリートになったりもするけれど、置き去りニンされたところは、空き家にヒトが不法で住み始めちゃったり、麻薬取引の場所になっちゃったり、低所得層のヒトが住み始め、それに付随して犯罪率が高くなったりしているわけだ。
私も後からそんなことをするのは懸命ではないと言わちゃったけど、今回はゴーストタウン化しちゃったエリアを社会科見学した。怪しい感じのバーとかやっぱりめっちゃ入りずらそう。
長いこと誰も住んでいなさそうな家、真っ暗な暗がりの中で糞寒いのに立ち話をしているアフリカ系アメリカ人の若者。廃墟よ廃墟。
って住んでいるヒトがいたら失礼だけど。
なんてエリアの中には、若き健全なボズニアンが移り住み、ここで身を立てていくぞという決意のもと、こつこつと努力して、とても殺伐としちゃっていた廃墟チックなエリアを見事によみがえらせているエリアがあるのだそう。全うに仕事をして、正しい家族のバリューをもって、家庭を築き、そういうボスニアからの移民が集まってコミュニティをつくり、廃墟になっていた地域がまた息を吹き返す。
この話しを聞いて、ええな~としみじみ思ったね。
一代目は苦労続きかもしれないけれど、二代目からはアメリカ人として、きちんと教育を受けてさえいれば、アメリカという国でしっかり暮らしていけるはず。
アメリカに移民として入ってくるようなボズニアンさんたちは、ほとんどがイスラム系のヒト達だって聞いた。
じゃあアメリカ人て誰なんだってな論議はさておき、そこに暮らすアメリカ人は見向きもしなけりゃ、足なんか決して踏み入れたがらないようなところの、放置されてきたような物件を買って、そこから積み上げていくのだろうね。週末は家の修理をし、妻が壁のペンキを塗り、平日は一生懸命働く。こつこつと積み上げて、信用を得て、自分の居場所をつくっていく。
強さだな~。
突拍子がなくて申し訳ないけど、ちょびっとボズニアのヒト達について。
内戦からほぼ20年がたつボズニア。日本語表記はボスニア?それともボズニア?
何度かドキュメンタリ番組でサラエボの様子や、内戦の爪痕なんかを見たけれど、ボスニア人の友達っていうのはいないし、直接なにかボズニア人やボズニア事情が肌から直に入って来た~ということには未経験だ。
でも今度のワールドカップ出場が決まったりして、あんなに過酷な内戦を経て、ワールドカップに出場するなんて、本来のニンゲンのもつ強さを感じます。resilientだなーって。生きるのに大変な国や人々にとっちゃ~、スポーツみたいなもんで強くなるなんていうのは二の次だもんね。
私は観ていないけど、
ボスニアの少数民族ロマの家族に起こる悲劇を描いたドキュメンタリ映画が去年公開されましたね。
ダニス・タノヴィッチ監督の最新作「鉄くず拾いの物語」ざます。
<関連リンク>
鉄くず拾いの物語オフィシャルサイト
『鉄くず拾いの物語』が問いかけるもの(ニュースウィーク日本版のダニス・タノヴィッチ監督へのインタビュー
年末にちょいと道草を食ったアメリカで、ボズニアン・パワーを感じた。
ビジネスマンとして働いていた友達、超スマートな奥さんのサポートもあって、早期退職し、VPから地元の小学校で代理教師のボランティアに転じて、毎日がずっと(大企業で働いていた頃のよりも)充実していると話してた。ニンゲンの幸福感は周囲からしてもらうことによって得られるのよりも、自分が周りに差し出すことで得られる幸福感の方がずっと強い。
ってなわけでこの友達ボランティア・ワークを楽しんでいるのだけど、この友達がボランティアで代理教師をつとめる学校、約80%がボスニア人なのだそうだ。残りの20%のうち大多数はベトナム人で、あとはちらほら中華系の子がいたり、韓国系の子がいたりなのだそう。
(だからもうフルネームは覚えないと決めているとか

なんてエピソードを聞いても、どれだけボズニアからの移民が多いか。またどれだけアメリカが新しい移民を受け入れているかが判る。こういうのは、都市や州によっての政策によって行なわれてたりして、特定の都市や州や地域が、特定の国からの移民の受け入れに積極的だったりするんだそうだ。
こうしてアメリカっていう国は、パワーのrefillを繰り返してきた国なんだろうね。
2世代目くらいからは、皆が「アメリカ人」になって、同じ土俵で同じチャンスをつかんでいく。
そういう意味では閉鎖度は低いんじゃないかな。入って来た方にも受け入れた方にも。
(韓国系や中華系の生徒は、アメリカの教職者はほとんど口を揃えて、優秀だっていうけど)ボスニア系の生徒ちゃんたちはどんな感じなの?と聞くと、『ちゃんと学校には来る』っていうのと、『親が学校に任せっきりにせずに、教育に参加をしている』とのフィードバック。ふ~ん。
実は私の目が肥えていないだけで、まちにもそこここにボズニアからの移民のヒト達が元気に働いているよう。靴屋で靴を大人買いした時に、reward cardをつくらないかと勧めて来たレジにいた店員さん。ここに住んでないからいらないといっても、熱心に勧めてくる。いらないっちゅーに

この若くて可愛いお兄ちゃんもボズニア人だった。
ちなみに靴屋さんのとなりにあったネイルサロンで手足のケアをしてもらったけど、こちとら、ベトナム人のママとアメリカ人のパパをもつ女性だった。
例えばお年寄りの暮らすお家にいって話し相手になってあげたり、ちょっとした身の回りの世話をしてあげたりというようなヒトをアメリカ人が探す時にも、ボズニア人は信用があるよう。
私がお邪魔した都市では、とても肯定的に受け入れられていて、勤勉さや、これといった問題を起こさずに、地域に根付いているような印象を受けた。
アメリカではこの都市に限らず、いろんなところで、ある一部の地域で一斉に開発が進み、素敵な物件が建ち、そのエリアめがけて都市部からまず、ヒトが郊外へと移り住む。つまりsuburbanデビューね

私も後からそんなことをするのは懸命ではないと言わちゃったけど、今回はゴーストタウン化しちゃったエリアを社会科見学した。怪しい感じのバーとかやっぱりめっちゃ入りずらそう。
長いこと誰も住んでいなさそうな家、真っ暗な暗がりの中で糞寒いのに立ち話をしているアフリカ系アメリカ人の若者。廃墟よ廃墟。
って住んでいるヒトがいたら失礼だけど。
なんてエリアの中には、若き健全なボズニアンが移り住み、ここで身を立てていくぞという決意のもと、こつこつと努力して、とても殺伐としちゃっていた廃墟チックなエリアを見事によみがえらせているエリアがあるのだそう。全うに仕事をして、正しい家族のバリューをもって、家庭を築き、そういうボスニアからの移民が集まってコミュニティをつくり、廃墟になっていた地域がまた息を吹き返す。
この話しを聞いて、ええな~としみじみ思ったね。
一代目は苦労続きかもしれないけれど、二代目からはアメリカ人として、きちんと教育を受けてさえいれば、アメリカという国でしっかり暮らしていけるはず。
アメリカに移民として入ってくるようなボズニアンさんたちは、ほとんどがイスラム系のヒト達だって聞いた。
じゃあアメリカ人て誰なんだってな論議はさておき、そこに暮らすアメリカ人は見向きもしなけりゃ、足なんか決して踏み入れたがらないようなところの、放置されてきたような物件を買って、そこから積み上げていくのだろうね。週末は家の修理をし、妻が壁のペンキを塗り、平日は一生懸命働く。こつこつと積み上げて、信用を得て、自分の居場所をつくっていく。
強さだな~。