it's a mans world - 男社会 2
it's a mans world - 男社会 2からの続きです。
1時間番組を観たくらいで捨松さんのことをいろいろ学べないけれど、ざっと番組で紹介された感じだと、政府高官と結婚した彼女がしたことは、やはり職業婦人的なことというよりも、西洋(キリスト教圏)でありがちな、お金持ちや地位ある男性の奥さんの社会参加そのままだったように感じられた。鹿鳴館でチャリティーバザーなんて、まさにありがちな行為だ。まるでとってもお金持ちな西洋圏の知り合いの奥さんの方の活動話しを聞いているようだ(それだけ(税金対策はさておき)、社会貢献してない専業主婦っていうのは、「まずい」んだと思う。職業についてなくても何かしてないと体裁が悪いっていうのが西洋にはあるんだと思う。)。
津田梅子さんの学校創設を裏から支えるところなども、奥さんの社会貢献ぽい。(注意:←奥さんの社会貢献<女性の職業的社会進出と言っているわけではありません)
話しを現代に戻して、
数ヶ月前に深圳に出張した時、ある女性とちょっとした出会いがありまして(笑)、その女性と意気投合して一緒にネイルサロンに行き、隣に座ってあれこれおしゃべりをしたことがあった(一夜限りのおつきあいね)。
このアメリカ人の女性、かなりブイブイの輝かしいキャリアをお持ちの方のようで(気取らない話しぶり、ネイリストのお姉ちゃん達に接するやさしい気遣いとユーモアなんかで、かなりすごいひとなんだろうなーと想像に易しかった)、東京でも一斉を風靡した企業の革新的な時期に、ものすごいプロジェクトをリードしてたみたいだ。彼女のキャリアに合わせて旦那さんと2人で世界いろーんなところに駐在しているんだそう。幸運にしていつも彼女のキャリアに合わせることができるようなおちがついて、旦那さんともいつも一緒に暮らせるそうだ。
この彼女、ルーツはイランにあるのだそうで、おしゃべりの中で、日本で仕事をした時のことに触れていたけど、最初は、一緒に働く日本人たちに対して(まずは、オトコしかいなくてびっくりした後で)インターナショナルな(各国共通な)アプローチをしてたんだけど、それが上手くいかないことに気づいてシフトチェンジをしたんだそうだ。国際的な接し方とは別に、日本人男性には特別な態度で接したらコミュニケーションがたちまちスムースになっていろんなことが上手く運んだのだそう。で、この日本人男性に対してとったアプローチだけど、ご自身のルーツのあるイランの慣習に合わせたようなアプローチだったのだそう。
って、アラブ男性を扱うようにって、そこまでですか~?!
気持ちとしては、おいおいちょっと待ってくれよ、イスラム文化圏の男性と一緒にするのはいくらなんでも。。と思いたくなる。だってこっちは逆に逆に我々は草食系男子なんていいましてね、、、なんて言い訳も浮かぶには浮かぶけど、事実、インターナショナルなのりで日本人男性と、女性がひとりでやりあおうとしても、機能しないような気がする。日本の男性は真っ向から女性にぶつかられることになれてないから、だから日本人女性も後ろで上手く操るみたいな戦法をとる事が多いのか、「男性の気づかぬところで」うまく手のひらで遊ばせることができるような女性こそ、おりこうさん的風潮があるようにも見受けられる。
多分、日本という島で暮らす男性も女性も大多数は、日本人の男尊女卑度、男社会度、女性の地位の低さなんかは、欧米のそれに比べたらまだまだ劣る/遅れているにせよ、一夫多妻性をとっているような、女性がニカーブとかいった服装をしているような国に比べたら、ずっと我々の方がさばけてて開けてると思っているんじゃないかと思うけど、ここらへん、結構怪しいのかもしれない。すべては脳みそのなかにあり。
勿論日本は、一夫多妻を合法化していないし、FGM(女性期切除)などという国際社会に女性虐待だと批判される慣習もないし、年齢に達すれば女性も投票ができるけど、
ひとつ言及しておきたいのは、こういうのって、自分たちはそうじゃないと思うことと、そういう印象を相手がもつというのはまったく別物だってことだ。自分のことは自分が一番知っているということなかれ。こういうのっていうのは比べる対象があってのものだから。
私の身長は普通だ。高くもなければ低くもない。
だから私の身長は中くらいだと私は断言しよう。
だけど、皆が、私を、タイでは、「ああ、あの大柄なひと」というかもしれないし、だいたいアングロサクソン系の国にいると、「petit」と言われる。
主観で中くらいでも、客観では大きくなったり小さくなったりする不思議の国のアリスだ。
だからある意味、私は大柄であることは、タイの人たちにとっては事実だろうし、
アングロサクソン系のヒトたちにとっては私は小さくて華奢なのが事実なのだ。
日本に帰国して数年、男尊女卑や、男社会のパーティクルが、そこここにモザイク細工のようにちりばめられているのに時々気づかされて、
することがある。
男社会を形成しているおじさんたちの中には、娘さんのある方もいらっしゃるだろう。おじさんたちは、おこずかいを節約して、欲しい物を我慢して、娘さんに高等教育を受けさせてあげたり、留学させてあげたりして、娘さんが将来、より幸せになることを願っているはずだ。
こういう世のおじさんたちが願う娘の幸せってどういう未来予想図なんだろう。
まさか、「庭付き一戸建て住宅のお庭で白い洗濯物を干し、家族と犬に囲まれて笑っている我が娘の図」ばかりじゃなかろう。
恋、結婚、妊娠、出産、子育て路線以外の、娘の幸せ未来予想図を描くお父さんもいるだろう。
例えば、このお父さんは、自分の子供達の暮らす未来についてこんな風に言及した。
I have a dream that my four little children will one day live in a Nation where they will not be judged by the color of their skin, but by the conduct of their character.
https://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/speech/dream.htmから一部抜粋
このお父さんの名は、ドクター・マーチン・ルーサー・キング・ジュニア。
このスピーチが行われたのは、1963年。私が生まれる前の話しだ。このお父さんは、自分の子供達がいつか肌の色で判断されるのではなくて、子供達の人格によって判断される国に住めルヨウになってほしいという夢があると言っている。
自分の娘達が、性別だけによって、差別されることがないようにと願うお父さんはどれだけ日本にいるんだろうか。
それとも、自分の娘にですら、女性であることで、男性と待遇が違ってしまうことについてを受け入れてしまっているのだろうか。
私には子供がいない。
いないからすべてが妄想発言にすぎないんだけど、
もし、私に娘があったら、
男性と同じくらい頑張って、男性と同じくらいの能力をもっていたり、成果を出しているのに、男性と同等に評価されなかったり、男性と同じ成果を出している故に女性だからということで特別な見られ方をしたり、女性だからという理由で道がせばまれるようなことがあって欲しくないと非常に強く思うと思う。
娘がなくとも、後世に続く女の子達を見ていて、女性だというだけで、認められ方が男性と違うということがこれからもありつづけるのかと思うと胸が痛い。
平日のホテルのランチのビュッフェや平日昼間のジムが決してオナゴだけでなくて、男性も女性も同じようにいて、
それと同様に、オフィスの中でも、役職者席にも、役員会議にも、男性と同じだけ女性がいる社会が来るのが待ち遠しい。
最近の不況に、日本企業は左うちわではいられなくなった。
ダウンサイジングにコスト削減、撤退、統合、いろんな嵐が吹き荒れて、生活がかかっているおじさんたちの心配も多い。
「(全略)そうSalsaさんは言いますけどね、妻はパート程度でしか仕事がなくて、私大生の子供を2人抱えた私の身にもなってください」
とか、
「この歳になって転職なんてことになって仕事が見つからなかったらローンが払えません」
とか、
「自分だけだったらどうにでもなるけど、うちはまだ子供が小さいし、女房子供抱えているんで」
とか、
言うひとあり、またこういう一言で一瞬うっかり納得させられてしまいそうになるんだけど、
ちょっと考えてみると、どうして、こういうひとは公にこういうことが言えて、
派遣で働いたりしながら、高い家賃を払って、細々と暮らしている一人暮らしの女性は、公の場で、自分たちにも安定した収入が必要であることを、大手を振って言えてなかったりするんだろうか。「養ってくれる殿方さえ見つかっちまえば一件落着するから大丈夫だろう」というassumptionがあるのだろうか。
「そんなんだと行き遅れるぞー」
「もー、○○君!失礼な!」なんてやりとりも一昔前はあったような気がするけど、
こんな軽口の中にも、
この「行き遅れるぞ」という言葉とか、結婚できないぞという言葉には、単に婚期が遅れるとか、結婚できないという単純な事実だけではなくて、結婚できない→よって社会的弱者のまま一生を過ごすことになるぞという、恐ろしい潜在的メッセージがニュアンスとして秘められていたのだ(笑)
こんなしょうもない軽口をたたいた男性の頭には、この言葉を言い放った女性の将来について、「結婚はしてないけど、郊外の素敵なお家を買って快適に独身生活を謳歌している女性の図」は描かなかったはずだ。もっと可哀想な境遇をイメージしてのこと言葉だと思う。つまり、結婚せずに延々と働いていても、明るくて平穏な将来など独り身の女性には待っちゃいないというのが暗黙の事実だったのだ。
そうとなれば、誰がそんな不公平なルールでゲームに奮闘するかということになる。
利口な女性達が、そんなルールでのゲームに目くじらを立てるよりも、特定の男性の恋人になったり、結婚したり、配偶者になったりして、人生の意義や、自分の価値、安泰を手にしようではないかと思うのも当然。結婚というなんとも利口な制度がたいていの国にある限り、そういうドメスティックな安泰=幸せと思う価値観は当分肯定視され続けるだろう。たいていの宗教が結婚を肯定してるしね。なによりも、結婚という安定した持続的な状態がある程度保持できないと、子育てが危うくなり、となると究極種族保存にもかかわってきてしまう。シングルが増えてる首都圏などでの日本の深刻な少子化なんかも同じラインにあるんじゃないかしら。
でもやっぱり私は、女性が自己実現できるような社会に少しでも早く来てもらうためにも、横着をして古い慣習に甘んじて長いものに巻かれてちゃいかんと思うんだよね。
子供があるなしに関わらず、この世に生をうけた以上、後のひとのために、世の中を少しでもよりよいものにしていくのが、生物学上の「税」だと思うんだよね(笑)
私たちだって、過去に誰かが戦って勝ち取ったもの、命がけて守ったものの上で生かされているんだし。
it's a mans world - 男社会 2からの続きです。
1時間番組を観たくらいで捨松さんのことをいろいろ学べないけれど、ざっと番組で紹介された感じだと、政府高官と結婚した彼女がしたことは、やはり職業婦人的なことというよりも、西洋(キリスト教圏)でありがちな、お金持ちや地位ある男性の奥さんの社会参加そのままだったように感じられた。鹿鳴館でチャリティーバザーなんて、まさにありがちな行為だ。まるでとってもお金持ちな西洋圏の知り合いの奥さんの方の活動話しを聞いているようだ(それだけ(税金対策はさておき)、社会貢献してない専業主婦っていうのは、「まずい」んだと思う。職業についてなくても何かしてないと体裁が悪いっていうのが西洋にはあるんだと思う。)。
津田梅子さんの学校創設を裏から支えるところなども、奥さんの社会貢献ぽい。(注意:←奥さんの社会貢献<女性の職業的社会進出と言っているわけではありません)
話しを現代に戻して、
数ヶ月前に深圳に出張した時、ある女性とちょっとした出会いがありまして(笑)、その女性と意気投合して一緒にネイルサロンに行き、隣に座ってあれこれおしゃべりをしたことがあった(一夜限りのおつきあいね)。
このアメリカ人の女性、かなりブイブイの輝かしいキャリアをお持ちの方のようで(気取らない話しぶり、ネイリストのお姉ちゃん達に接するやさしい気遣いとユーモアなんかで、かなりすごいひとなんだろうなーと想像に易しかった)、東京でも一斉を風靡した企業の革新的な時期に、ものすごいプロジェクトをリードしてたみたいだ。彼女のキャリアに合わせて旦那さんと2人で世界いろーんなところに駐在しているんだそう。幸運にしていつも彼女のキャリアに合わせることができるようなおちがついて、旦那さんともいつも一緒に暮らせるそうだ。
この彼女、ルーツはイランにあるのだそうで、おしゃべりの中で、日本で仕事をした時のことに触れていたけど、最初は、一緒に働く日本人たちに対して(まずは、オトコしかいなくてびっくりした後で)インターナショナルな(各国共通な)アプローチをしてたんだけど、それが上手くいかないことに気づいてシフトチェンジをしたんだそうだ。国際的な接し方とは別に、日本人男性には特別な態度で接したらコミュニケーションがたちまちスムースになっていろんなことが上手く運んだのだそう。で、この日本人男性に対してとったアプローチだけど、ご自身のルーツのあるイランの慣習に合わせたようなアプローチだったのだそう。
って、アラブ男性を扱うようにって、そこまでですか~?!
気持ちとしては、おいおいちょっと待ってくれよ、イスラム文化圏の男性と一緒にするのはいくらなんでも。。と思いたくなる。だってこっちは逆に逆に我々は草食系男子なんていいましてね、、、なんて言い訳も浮かぶには浮かぶけど、事実、インターナショナルなのりで日本人男性と、女性がひとりでやりあおうとしても、機能しないような気がする。日本の男性は真っ向から女性にぶつかられることになれてないから、だから日本人女性も後ろで上手く操るみたいな戦法をとる事が多いのか、「男性の気づかぬところで」うまく手のひらで遊ばせることができるような女性こそ、おりこうさん的風潮があるようにも見受けられる。
多分、日本という島で暮らす男性も女性も大多数は、日本人の男尊女卑度、男社会度、女性の地位の低さなんかは、欧米のそれに比べたらまだまだ劣る/遅れているにせよ、一夫多妻性をとっているような、女性がニカーブとかいった服装をしているような国に比べたら、ずっと我々の方がさばけてて開けてると思っているんじゃないかと思うけど、ここらへん、結構怪しいのかもしれない。すべては脳みそのなかにあり。
勿論日本は、一夫多妻を合法化していないし、FGM(女性期切除)などという国際社会に女性虐待だと批判される慣習もないし、年齢に達すれば女性も投票ができるけど、
ひとつ言及しておきたいのは、こういうのって、自分たちはそうじゃないと思うことと、そういう印象を相手がもつというのはまったく別物だってことだ。自分のことは自分が一番知っているということなかれ。こういうのっていうのは比べる対象があってのものだから。
私の身長は普通だ。高くもなければ低くもない。
だから私の身長は中くらいだと私は断言しよう。
だけど、皆が、私を、タイでは、「ああ、あの大柄なひと」というかもしれないし、だいたいアングロサクソン系の国にいると、「petit」と言われる。
主観で中くらいでも、客観では大きくなったり小さくなったりする不思議の国のアリスだ。
だからある意味、私は大柄であることは、タイの人たちにとっては事実だろうし、
アングロサクソン系のヒトたちにとっては私は小さくて華奢なのが事実なのだ。
日本に帰国して数年、男尊女卑や、男社会のパーティクルが、そこここにモザイク細工のようにちりばめられているのに時々気づかされて、
することがある。男社会を形成しているおじさんたちの中には、娘さんのある方もいらっしゃるだろう。おじさんたちは、おこずかいを節約して、欲しい物を我慢して、娘さんに高等教育を受けさせてあげたり、留学させてあげたりして、娘さんが将来、より幸せになることを願っているはずだ。
こういう世のおじさんたちが願う娘の幸せってどういう未来予想図なんだろう。
まさか、「庭付き一戸建て住宅のお庭で白い洗濯物を干し、家族と犬に囲まれて笑っている我が娘の図」ばかりじゃなかろう。
恋、結婚、妊娠、出産、子育て路線以外の、娘の幸せ未来予想図を描くお父さんもいるだろう。
例えば、このお父さんは、自分の子供達の暮らす未来についてこんな風に言及した。
I have a dream that my four little children will one day live in a Nation where they will not be judged by the color of their skin, but by the conduct of their character.
https://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/speech/dream.htmから一部抜粋
このお父さんの名は、ドクター・マーチン・ルーサー・キング・ジュニア。
このスピーチが行われたのは、1963年。私が生まれる前の話しだ。このお父さんは、自分の子供達がいつか肌の色で判断されるのではなくて、子供達の人格によって判断される国に住めルヨウになってほしいという夢があると言っている。
自分の娘達が、性別だけによって、差別されることがないようにと願うお父さんはどれだけ日本にいるんだろうか。
それとも、自分の娘にですら、女性であることで、男性と待遇が違ってしまうことについてを受け入れてしまっているのだろうか。
私には子供がいない。
いないからすべてが妄想発言にすぎないんだけど、
もし、私に娘があったら、
男性と同じくらい頑張って、男性と同じくらいの能力をもっていたり、成果を出しているのに、男性と同等に評価されなかったり、男性と同じ成果を出している故に女性だからということで特別な見られ方をしたり、女性だからという理由で道がせばまれるようなことがあって欲しくないと非常に強く思うと思う。
娘がなくとも、後世に続く女の子達を見ていて、女性だというだけで、認められ方が男性と違うということがこれからもありつづけるのかと思うと胸が痛い。
平日のホテルのランチのビュッフェや平日昼間のジムが決してオナゴだけでなくて、男性も女性も同じようにいて、
それと同様に、オフィスの中でも、役職者席にも、役員会議にも、男性と同じだけ女性がいる社会が来るのが待ち遠しい。
最近の不況に、日本企業は左うちわではいられなくなった。
ダウンサイジングにコスト削減、撤退、統合、いろんな嵐が吹き荒れて、生活がかかっているおじさんたちの心配も多い。
「(全略)そうSalsaさんは言いますけどね、妻はパート程度でしか仕事がなくて、私大生の子供を2人抱えた私の身にもなってください」
とか、
「この歳になって転職なんてことになって仕事が見つからなかったらローンが払えません」
とか、
「自分だけだったらどうにでもなるけど、うちはまだ子供が小さいし、女房子供抱えているんで」
とか、
言うひとあり、またこういう一言で一瞬うっかり納得させられてしまいそうになるんだけど、
ちょっと考えてみると、どうして、こういうひとは公にこういうことが言えて、
派遣で働いたりしながら、高い家賃を払って、細々と暮らしている一人暮らしの女性は、公の場で、自分たちにも安定した収入が必要であることを、大手を振って言えてなかったりするんだろうか。「養ってくれる殿方さえ見つかっちまえば一件落着するから大丈夫だろう」というassumptionがあるのだろうか。
「そんなんだと行き遅れるぞー」
「もー、○○君!失礼な!」なんてやりとりも一昔前はあったような気がするけど、
こんな軽口の中にも、
この「行き遅れるぞ」という言葉とか、結婚できないぞという言葉には、単に婚期が遅れるとか、結婚できないという単純な事実だけではなくて、結婚できない→よって社会的弱者のまま一生を過ごすことになるぞという、恐ろしい潜在的メッセージがニュアンスとして秘められていたのだ(笑)
こんなしょうもない軽口をたたいた男性の頭には、この言葉を言い放った女性の将来について、「結婚はしてないけど、郊外の素敵なお家を買って快適に独身生活を謳歌している女性の図」は描かなかったはずだ。もっと可哀想な境遇をイメージしてのこと言葉だと思う。つまり、結婚せずに延々と働いていても、明るくて平穏な将来など独り身の女性には待っちゃいないというのが暗黙の事実だったのだ。
そうとなれば、誰がそんな不公平なルールでゲームに奮闘するかということになる。
利口な女性達が、そんなルールでのゲームに目くじらを立てるよりも、特定の男性の恋人になったり、結婚したり、配偶者になったりして、人生の意義や、自分の価値、安泰を手にしようではないかと思うのも当然。結婚というなんとも利口な制度がたいていの国にある限り、そういうドメスティックな安泰=幸せと思う価値観は当分肯定視され続けるだろう。たいていの宗教が結婚を肯定してるしね。なによりも、結婚という安定した持続的な状態がある程度保持できないと、子育てが危うくなり、となると究極種族保存にもかかわってきてしまう。シングルが増えてる首都圏などでの日本の深刻な少子化なんかも同じラインにあるんじゃないかしら。
でもやっぱり私は、女性が自己実現できるような社会に少しでも早く来てもらうためにも、横着をして古い慣習に甘んじて長いものに巻かれてちゃいかんと思うんだよね。
子供があるなしに関わらず、この世に生をうけた以上、後のひとのために、世の中を少しでもよりよいものにしていくのが、生物学上の「税」だと思うんだよね(笑)
私たちだって、過去に誰かが戦って勝ち取ったもの、命がけて守ったものの上で生かされているんだし。