from skayward - 機内誌より
飛行機に乗る時は、機内誌に目を通すのが好きだ。
いや、新幹線に乗っても必ず機内誌には目を通す。が、飛行機内で目を通す機内誌が一番面白い。あたりはずれがあるにせよ、どこのエアラインも結構面白い記事を載せていてくれるからありがたい。
今回の搭乗で、JALの機内誌、skywardの8月号(2012年)に目を通した。
近藤紘一氏についての記事が、JALの機内誌に記載されていた。
まずは近藤紘一氏について:
1940年(昭和15年)11月27日、東京市本郷区本郷の東京大学病院で父台五郎、母信の第二子長男として生まれる。1947年(昭和22年)、神奈川県逗子町立久木小学校に入学。1953年(昭和28年)、逗子町立久木中学校に入学。5月、私立湘南学園中学に転校。1959年(昭和34年)、神奈川県立湘南高等学校卒業。1963年(昭和38年)、早稲田大学第一文学部仏文科を首席で卒業。
卒業後サンケイ新聞(現・産経新聞)入社。静岡支局勤務。1964年(昭和39年)大学の同級生で元駐仏大使萩原徹の長女と結婚。1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)まで、フランス留学、同時に欧州移動特派員も兼務。1970年(昭和45年)2月3日、夫人と死別。
1971年(昭和46年)から1974年(昭和49年)まで、サイゴン支局長。1972年(昭和47年)ベトナム人のブイ・チ・ナウと再婚。夫人の娘であるミーユンを自分の娘として同時に引き取る。
1975年(昭和50年)3月25日から5月23日まで、臨時特派員としてサイゴンへ再び派遣され、南ベトナム無条件降伏、サイゴン陥落を経験する。
1976年(昭和51年)、夕刊フジに出向。復社後、1978年(昭和53年)から1983年(昭和58年)までバンコク支局長。その後、国際報道部次長、編集委員。
1984年(昭和59年)、小説『仏陀を買う』で中央公論新人賞受賞。
1986年(昭和61年)1月27日東京都港区虎の門病院で胃癌のため死去。享年45。葬儀の送辞は司馬遼太郎が読んだ。
<http://ja.wikipedia.org/wiki/近藤紘一から一部抜粋>
ホーチミン行きのフライトの中でこんな記事に出会うとは、奇遇。執筆したのは、野地秩嘉氏。
そして、近藤氏も最初の奥さんと死別している。結婚6年目にして奥さんは他界されている。
この記事を読んでいてとても近藤氏に惹かれた。
記事にはこんな言及があったからだ。
いずれの土地へいっても彼は貴社としてニュースを迫ったが、時間を見つけて庶民の生活を見に出かけている。食堂、飲み屋、そしてまじめな新聞記者なら近づかないような場所にまで足を伸ばし、普通の人々が楽しんでいるかどうかを確認した。
「オレはニンゲンを描く」と宣言して戦争のさなかのベトナムに赴任した。(中略)戦場で暮らす庶民を書いた。
そんなベトナムの庶民を評価した彼の視線は祖国、日本にも向かった。
「私たちが結果的には『固まって住み』やはり一種の『閉鎖社会』を構成していることは、主観的にも客観的も厳然とした事実といわざるを得ない(略)日本と東南アジア諸国の距離や差異は、近く似ているようでいながら宗教、慣習、人々の発想や生活形態など諸々の面で、実は日本ー欧米間のそれらよりより遠い部分がたくさんある。
こういうところ(東南アジア諸国)に『関係ないところには目を向けぬ』という、今や日本人の一特性となってしまった(と、少なくとも私には思えるのだが)心の態度を持ち込んで暮らしたらどういうことが生じるか。差異が大きいだけに余計私たちは地元かrあ浮き上がった存在となる(略)考えてみれば何も外国に限らず日本でだって私たちは同じように『関係のんないこと』に大してみごとなまでに心を閉ざして日常生活を送っている気がする」(『妻と娘の国に行った特派員』文春文庫)
是非、近藤氏のベトナムについての作品を読んでみたいと思った。
ウィキによるとこれだけの著作がある。
サイゴンのいちばん長い日 サンケイ新聞、1975 のち文春文庫(ISBN 4167269031)
サイゴンから来た妻と娘 文藝春秋、1978 のち文庫(ISBN 4167269015)
統一ベトナムとインドシナ 教育社 1978
戦火と混迷の日々―悲劇のインドシナ サンケイ出版、1979 のち文春文庫(ISBN 416726904X)
バンコクの妻と娘 文藝春秋、1980 のち文庫(ISBN 4167269023)
したたかな敗者たち 文藝春秋、1982 のち文庫(ISBN 4167269058)
国際報道の現場から 古森義久共著 中公新書、1984(ISBN 4121007301)
パリへ行った妻と娘 文藝春秋、1985 のち文庫(ISBN 4167269066)
妻と娘の国に行った特派員 文藝春秋、1986 のち文庫(ISBN 4167269074)
仏陀を買う 中央公論社、1986(ISBN 412001505X)
目撃者―「近藤紘一全軌跡1971~1986」より 文藝春秋、1987 のち文庫(ISBN 4167269082)
<http://ja.wikipedia.org/wiki/近藤紘一から引用>
私たちが結果的には『固まって住み』やはり一種の『閉鎖社会』を構成していることは、主観的にも客観的も厳然とした事実といわざるを得ない
この点だけど、私も同感せずにはいられない。
日本人対○○人ではなくて、多くの国籍のヒトの中に日本人が混ざってみてもやはり、どこの国民よりも閉鎖性が高いのは日本人であることを否めないんじゃなかろうかと思う事が多い今日この頃だ。
いろんな、ひいき目があろう。
照れ屋だから、シャイだから、不器用ものだから、なんていうのが多分王道の言い訳だろうけど、旨く他の国のヒトたちとどうしても混ざれない日本人。Thank youやI am sorryなんていう言葉も何かが邪魔をしてするっと口から発することができない日本人←これは言葉を知っているとか知らないとかの問題じゃない。
それはさておき、近藤氏の2度目のベトナム人の奥さんたら、本当に愛らしい。
おやじのようなことを言うけど、訪れる先、訪れる先で、その国の女性というのはそれぞれ比べようがないように美しいもんである。
ベトナムの女性のあの胸板の薄さ、小柄で華奢な体にアオザイは本当によく似合う。って、冠婚葬祭とかの時くらいしか普通のベトナム人女性はアオザイを着用しないらしいけど。
きっと切なくてロマンティックア恋に近藤氏はなうさんと堕ちたのだろう。
普通の人々が楽しんでいるかどうかを確認したなんて、読んでいて思わず微笑んでしまった。
確かに庶民からの活気がみなぎっている都市は訪問していても楽しい。
庶民が楽しそうな都市が一番だ。
GNH(国民総幸福量)で、ベトナムがブータンを抜いたとか抜くとかとベトナムに駐在しているシンガポール人の同僚が言っていたけど、確かに皆、ゆったりしてる。

飛行機に乗る時は、機内誌に目を通すのが好きだ。
いや、新幹線に乗っても必ず機内誌には目を通す。が、飛行機内で目を通す機内誌が一番面白い。あたりはずれがあるにせよ、どこのエアラインも結構面白い記事を載せていてくれるからありがたい。
今回の搭乗で、JALの機内誌、skywardの8月号(2012年)に目を通した。
近藤紘一氏についての記事が、JALの機内誌に記載されていた。
まずは近藤紘一氏について:
1940年(昭和15年)11月27日、東京市本郷区本郷の東京大学病院で父台五郎、母信の第二子長男として生まれる。1947年(昭和22年)、神奈川県逗子町立久木小学校に入学。1953年(昭和28年)、逗子町立久木中学校に入学。5月、私立湘南学園中学に転校。1959年(昭和34年)、神奈川県立湘南高等学校卒業。1963年(昭和38年)、早稲田大学第一文学部仏文科を首席で卒業。
卒業後サンケイ新聞(現・産経新聞)入社。静岡支局勤務。1964年(昭和39年)大学の同級生で元駐仏大使萩原徹の長女と結婚。1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)まで、フランス留学、同時に欧州移動特派員も兼務。1970年(昭和45年)2月3日、夫人と死別。
1971年(昭和46年)から1974年(昭和49年)まで、サイゴン支局長。1972年(昭和47年)ベトナム人のブイ・チ・ナウと再婚。夫人の娘であるミーユンを自分の娘として同時に引き取る。
1975年(昭和50年)3月25日から5月23日まで、臨時特派員としてサイゴンへ再び派遣され、南ベトナム無条件降伏、サイゴン陥落を経験する。
1976年(昭和51年)、夕刊フジに出向。復社後、1978年(昭和53年)から1983年(昭和58年)までバンコク支局長。その後、国際報道部次長、編集委員。
1984年(昭和59年)、小説『仏陀を買う』で中央公論新人賞受賞。
1986年(昭和61年)1月27日東京都港区虎の門病院で胃癌のため死去。享年45。葬儀の送辞は司馬遼太郎が読んだ。
<http://ja.wikipedia.org/wiki/近藤紘一から一部抜粋>
ホーチミン行きのフライトの中でこんな記事に出会うとは、奇遇。執筆したのは、野地秩嘉氏。
そして、近藤氏も最初の奥さんと死別している。結婚6年目にして奥さんは他界されている。
この記事を読んでいてとても近藤氏に惹かれた。
記事にはこんな言及があったからだ。
いずれの土地へいっても彼は貴社としてニュースを迫ったが、時間を見つけて庶民の生活を見に出かけている。食堂、飲み屋、そしてまじめな新聞記者なら近づかないような場所にまで足を伸ばし、普通の人々が楽しんでいるかどうかを確認した。
「オレはニンゲンを描く」と宣言して戦争のさなかのベトナムに赴任した。(中略)戦場で暮らす庶民を書いた。
そんなベトナムの庶民を評価した彼の視線は祖国、日本にも向かった。
「私たちが結果的には『固まって住み』やはり一種の『閉鎖社会』を構成していることは、主観的にも客観的も厳然とした事実といわざるを得ない(略)日本と東南アジア諸国の距離や差異は、近く似ているようでいながら宗教、慣習、人々の発想や生活形態など諸々の面で、実は日本ー欧米間のそれらよりより遠い部分がたくさんある。
こういうところ(東南アジア諸国)に『関係ないところには目を向けぬ』という、今や日本人の一特性となってしまった(と、少なくとも私には思えるのだが)心の態度を持ち込んで暮らしたらどういうことが生じるか。差異が大きいだけに余計私たちは地元かrあ浮き上がった存在となる(略)考えてみれば何も外国に限らず日本でだって私たちは同じように『関係のんないこと』に大してみごとなまでに心を閉ざして日常生活を送っている気がする」(『妻と娘の国に行った特派員』文春文庫)
是非、近藤氏のベトナムについての作品を読んでみたいと思った。
ウィキによるとこれだけの著作がある。
サイゴンのいちばん長い日 サンケイ新聞、1975 のち文春文庫(ISBN 4167269031)
サイゴンから来た妻と娘 文藝春秋、1978 のち文庫(ISBN 4167269015)
統一ベトナムとインドシナ 教育社 1978
戦火と混迷の日々―悲劇のインドシナ サンケイ出版、1979 のち文春文庫(ISBN 416726904X)
バンコクの妻と娘 文藝春秋、1980 のち文庫(ISBN 4167269023)
したたかな敗者たち 文藝春秋、1982 のち文庫(ISBN 4167269058)
国際報道の現場から 古森義久共著 中公新書、1984(ISBN 4121007301)
パリへ行った妻と娘 文藝春秋、1985 のち文庫(ISBN 4167269066)
妻と娘の国に行った特派員 文藝春秋、1986 のち文庫(ISBN 4167269074)
仏陀を買う 中央公論社、1986(ISBN 412001505X)
目撃者―「近藤紘一全軌跡1971~1986」より 文藝春秋、1987 のち文庫(ISBN 4167269082)
<http://ja.wikipedia.org/wiki/近藤紘一から引用>
私たちが結果的には『固まって住み』やはり一種の『閉鎖社会』を構成していることは、主観的にも客観的も厳然とした事実といわざるを得ない
この点だけど、私も同感せずにはいられない。
日本人対○○人ではなくて、多くの国籍のヒトの中に日本人が混ざってみてもやはり、どこの国民よりも閉鎖性が高いのは日本人であることを否めないんじゃなかろうかと思う事が多い今日この頃だ。
いろんな、ひいき目があろう。
照れ屋だから、シャイだから、不器用ものだから、なんていうのが多分王道の言い訳だろうけど、旨く他の国のヒトたちとどうしても混ざれない日本人。Thank youやI am sorryなんていう言葉も何かが邪魔をしてするっと口から発することができない日本人←これは言葉を知っているとか知らないとかの問題じゃない。
それはさておき、近藤氏の2度目のベトナム人の奥さんたら、本当に愛らしい。
おやじのようなことを言うけど、訪れる先、訪れる先で、その国の女性というのはそれぞれ比べようがないように美しいもんである。
ベトナムの女性のあの胸板の薄さ、小柄で華奢な体にアオザイは本当によく似合う。って、冠婚葬祭とかの時くらいしか普通のベトナム人女性はアオザイを着用しないらしいけど。
きっと切なくてロマンティックア恋に近藤氏はなうさんと堕ちたのだろう。
普通の人々が楽しんでいるかどうかを確認したなんて、読んでいて思わず微笑んでしまった。
確かに庶民からの活気がみなぎっている都市は訪問していても楽しい。
庶民が楽しそうな都市が一番だ。
GNH(国民総幸福量)で、ベトナムがブータンを抜いたとか抜くとかとベトナムに駐在しているシンガポール人の同僚が言っていたけど、確かに皆、ゆったりしてる。
