my fortune cookie - パワースポット、開運、成功5
突然続きを始めたいと思います(笑)
my fortune cookie - パワースポット、開運、成功4からの続きです。
<過去関連記事>
my fortune cookie - パワースポット、開運、成功3
my fortune cookie - パワースポット、開運、成功2
my fortune cookie - パワースポット、開運、成功1
introvert(〈関心などを〉自分の内部に向ける.)(←マックについてる辞書からの受け売り)になっちゃだめだなって思う。
日本人の勤勉さって、『道』の世界に多分ひもづいていて、こつこつと孤独でも道をきわめて行くところに我々の美しさがあるんだけど。 - またそんな日本人が私は好きだし、誇らしくもある。けどその手の美徳はおそらく、個人が究極を求める道の中の精神世界としてしっかり持ち続ければいいことで、いろーんな観念がごったがえしていて、とりわけ、未だに欧米的なビジネスが主導になっている”グローバルビジネス”の世界では、日本人が理想とするような結果は導かれないような気がしてます。ひとりカプセルの中で精進し始めたりしない方が良いと思う。ひとりで黙々とあるいは淡々とやるのなら他からの影響を受けないから、人生のups and downsに翻弄されなくて済む。けどそれでは運は開けない。人からの影響をなるべくうけたくないと、逃げ腰になると運も多分逃げちゃうんだと思う。
巧みの技を盗みなさいとか、
門前の小僧よ、お経は教えぬが、読めるようになれとか、そういうのは、日本列島の外に出てしまうと通じない。学ぶ側や聞く側にそこまで押し付けられないからね~。伝えられない、教えられない方が悪いとなってしまうことの方が多いと思う。
私もついつい、日本人だから『道』的なスピリットにはまりそうになったりする。
どっちがお得かとか、どっちが手っ取り早いかじゃなくて、究極をきわめてみたくなっちゃうわけ。生産性や効率性なんかよりも精神世界の方にワープしちゃう。
翻訳の仕事なら、多少荒削りでも、わかりゃいいよ的な翻訳よりも、巧みの技がないなりの巧みの技を盛り込みたいと思うし、クオリティの高い語を使えるのなら使いたいと思って切磋琢磨したくなってしまう。仕事ってよりも作品として向き合ってしまいたくなる悪い癖。
時として鶴の恩返しじゃないけど、秘密の小部屋にこもってもくもくと1人で素晴しい反物を精魂込めて織り上げたくなっちゃったりするけど、あんまりそれをやっちゃうと逆効果になるのかもしれないと自分を制してます。
基本的にはいつもフィールドに出てってなくちゃだめだ。プレーヤとしていまいちだからひとりで自主練して出直してきますって、フィールドからでないのがいいのかもしれない。いつもフィールドでボールを取りに行こうとしてることが大事なのかもしれない。秘密トレーニングをすることはあんまり考えないで。
俗っぽい例えをすれば、コイビトが欲しい時、出会いを求め街に飛び出して行くか、それとも自宅で腹筋したりお肌のお手入れをしたりするか。今のままじゃだめだと思うと後者になっちゃうんだろうと思うけど、街に繰り出しつつも、いくらでも自分磨きができると思ってた方がいい。あるいは、街に繰り出せなくなるほど大掛かりな自分磨きをしたからって、それに見合う効果は期待できないのかもしれない(笑)今の自分を認めて受け入れて、今の自分に自信をもって他者と関わって行くことが何よりも大事としよう。その大前提の中で出来る努力はしましょうって。
一旦人と関わると、ずぇったいに自分の思い通りになんてことは運ばないからだ。こんな決め台詞をここでとか、いろいろシナリオをたててもシナリオ通りに言った人なんて多分そんなにいないと思う。
とても威張れることじゃないけど、私という器の中には、たいしたものが入ってない
サラブレッドでもなければ、道を極められるような精神的な強さも根性も一貫性もない。特別何かに長けているってものもないと思う。美しさを武器にして欲しいものを手に入れられるほどの美貌は全く持ち合わせていない。『強運』の持ち主でもないし、たいした図々しさも実はない。要領はきわめて悪く、コネもない。そしてみなぎる若さ故のパワーみたいのも枯渇が始まっているのかもしれないし、玉の輿にものってなければ、親から授かった恩恵も十人並みだ。万人受けをするキャラでもない。そつなく立ち回れるかというと決してそうじゃなくて、しょっちゅう一言多かったり、足りなかったりの繰り返しだ。挫折は数知れず。しょっちゅう危うい状態に陥っている。あるいは身から出た錆とか、自分がまいた種で後でしっぺ返しを何遍もくらっている。安定はまた夢のまた夢だ。もう大丈夫かなーと思うと次の瞬間には奈落の底に落とされている。それでもなんだかんだいって私が結局は危機を脱して、かなり面白おかしく社会に貢献させてもらえるのは、多分、人との出会いや付き合いからもたらされた幸運を私が享受しているからなんだと思う。幸運とはつまり、言ってみればチャンスのことなのだろうか。
不運とは、チャンスに気づかずやり過ごしてしまうことなのだろうか。今年1年考えてみよう。
ひとりじゃ絶対無理だった。ヒトからもたらされたチャンスがなかったら、いくら私の中にやる気がみなぎってたって私はどこにもたどりつくことができなかった。チャンスをもらたしてくれるヒトがあって、私の背中を押してくれるヒトがあったから、私は単純にたのしく頑張ってさえすればどうにかなってきたのだ。例えば起死回生が今度こそできないんじゃないかってな時にもね。そんなヒトがなければ、私はハムスターみたいに、頑張って頑張って頑張って(なんて言うんだあのディバイス!)あの輪っかの中をはぁはぁっぜいぜい言いながらくたばるまで走っているだけだったと思う。
捨てる神がいて拾う神ありとはよく言ったもんだ。
ただ一つ、覚えておきたいのは、
『できません』って言うことについて。
日本語ではやりたくない時も、能力的に無理だという時も、ほとんどどっちも『できません』だと思うけど、
(やりたくなければ)I don't want to do it.
ってどんどん言ってもいいと思う。
だってやりたくないんだから(笑)
自分が、やりたくないからできませんなのか、自分の今持っているツールや力では無理と能力的に無理という意味で自分ができませんといっているのか、いつもはっきりさせてたいって思う。
日本人の輪の中では、できませんと言えば、あまり無理強いはされないような気がするけど、私が今いる環境では、(やりたくないから)できませんといえば、皆そっとしておいてくれると思うけど、
後者であったら、そんなできませんは絶対却下される。いや、却下され続けて来た。
I cannot do itって言っても、yes you can.でおしまいだ。やってもみないうちからなんでできませんとわかるんだ?できないのなら、できるようにしてあげるからやってみな。ってことになる。
まじかよ~!と何度も思ったけど、自分がそういう環境にいられることを『ありがたや』と結局思ってる。じゃあそうですかってお言葉に甘えていろいろやらせてもらっている。
そのかわり失敗してもいい。失敗から学べば。完璧なんか求めちゃいないぜって。
アラフォーにして、補助無しチャリを乗れるようになれと訓練を受けているようでもある。
アラフォーにして、いつも膝のかさぶたが耐えない。が、退屈するいとまがない。
そして思い返すと、小さなチャンスっていうのは、雑談の中から生まれてる。
恐るべし雑談。
ということで、私のフォーチュンクッキーは、神社仏閣でもない、チャーチでもない、パワースポットでもない、おみくじでもお参りでもない、タロットカードでも、風水でもない。コネでもない。私が今関わっているヒトたちなのであり、また、この人たちの出会いの種を成長させていくことであり、はたまた、芽吹いた種が成長できるスペースを気持ちの中に持つことなのであります。
そうすれば、のんきではありますが、おのずと、順風満帆とあいなってきたわけです。
私に関わってくれているヒトたちをすべて宝船に乗せとうございます。

2ヶ月近くずれ込みましたが、皆々様と一緒によりよい1年を過ごしていきたいと思っております。
突然続きを始めたいと思います(笑)
my fortune cookie - パワースポット、開運、成功4からの続きです。
<過去関連記事>
my fortune cookie - パワースポット、開運、成功3
my fortune cookie - パワースポット、開運、成功2
my fortune cookie - パワースポット、開運、成功1
introvert(〈関心などを〉自分の内部に向ける.)(←マックについてる辞書からの受け売り)になっちゃだめだなって思う。
日本人の勤勉さって、『道』の世界に多分ひもづいていて、こつこつと孤独でも道をきわめて行くところに我々の美しさがあるんだけど。 - またそんな日本人が私は好きだし、誇らしくもある。けどその手の美徳はおそらく、個人が究極を求める道の中の精神世界としてしっかり持ち続ければいいことで、いろーんな観念がごったがえしていて、とりわけ、未だに欧米的なビジネスが主導になっている”グローバルビジネス”の世界では、日本人が理想とするような結果は導かれないような気がしてます。ひとりカプセルの中で精進し始めたりしない方が良いと思う。ひとりで黙々とあるいは淡々とやるのなら他からの影響を受けないから、人生のups and downsに翻弄されなくて済む。けどそれでは運は開けない。人からの影響をなるべくうけたくないと、逃げ腰になると運も多分逃げちゃうんだと思う。
巧みの技を盗みなさいとか、
門前の小僧よ、お経は教えぬが、読めるようになれとか、そういうのは、日本列島の外に出てしまうと通じない。学ぶ側や聞く側にそこまで押し付けられないからね~。伝えられない、教えられない方が悪いとなってしまうことの方が多いと思う。
私もついつい、日本人だから『道』的なスピリットにはまりそうになったりする。
どっちがお得かとか、どっちが手っ取り早いかじゃなくて、究極をきわめてみたくなっちゃうわけ。生産性や効率性なんかよりも精神世界の方にワープしちゃう。
翻訳の仕事なら、多少荒削りでも、わかりゃいいよ的な翻訳よりも、巧みの技がないなりの巧みの技を盛り込みたいと思うし、クオリティの高い語を使えるのなら使いたいと思って切磋琢磨したくなってしまう。仕事ってよりも作品として向き合ってしまいたくなる悪い癖。
時として鶴の恩返しじゃないけど、秘密の小部屋にこもってもくもくと1人で素晴しい反物を精魂込めて織り上げたくなっちゃったりするけど、あんまりそれをやっちゃうと逆効果になるのかもしれないと自分を制してます。
基本的にはいつもフィールドに出てってなくちゃだめだ。プレーヤとしていまいちだからひとりで自主練して出直してきますって、フィールドからでないのがいいのかもしれない。いつもフィールドでボールを取りに行こうとしてることが大事なのかもしれない。秘密トレーニングをすることはあんまり考えないで。
俗っぽい例えをすれば、コイビトが欲しい時、出会いを求め街に飛び出して行くか、それとも自宅で腹筋したりお肌のお手入れをしたりするか。今のままじゃだめだと思うと後者になっちゃうんだろうと思うけど、街に繰り出しつつも、いくらでも自分磨きができると思ってた方がいい。あるいは、街に繰り出せなくなるほど大掛かりな自分磨きをしたからって、それに見合う効果は期待できないのかもしれない(笑)今の自分を認めて受け入れて、今の自分に自信をもって他者と関わって行くことが何よりも大事としよう。その大前提の中で出来る努力はしましょうって。
一旦人と関わると、ずぇったいに自分の思い通りになんてことは運ばないからだ。こんな決め台詞をここでとか、いろいろシナリオをたててもシナリオ通りに言った人なんて多分そんなにいないと思う。
とても威張れることじゃないけど、私という器の中には、たいしたものが入ってない

サラブレッドでもなければ、道を極められるような精神的な強さも根性も一貫性もない。特別何かに長けているってものもないと思う。美しさを武器にして欲しいものを手に入れられるほどの美貌は全く持ち合わせていない。『強運』の持ち主でもないし、たいした図々しさも実はない。要領はきわめて悪く、コネもない。そしてみなぎる若さ故のパワーみたいのも枯渇が始まっているのかもしれないし、玉の輿にものってなければ、親から授かった恩恵も十人並みだ。万人受けをするキャラでもない。そつなく立ち回れるかというと決してそうじゃなくて、しょっちゅう一言多かったり、足りなかったりの繰り返しだ。挫折は数知れず。しょっちゅう危うい状態に陥っている。あるいは身から出た錆とか、自分がまいた種で後でしっぺ返しを何遍もくらっている。安定はまた夢のまた夢だ。もう大丈夫かなーと思うと次の瞬間には奈落の底に落とされている。それでもなんだかんだいって私が結局は危機を脱して、かなり面白おかしく社会に貢献させてもらえるのは、多分、人との出会いや付き合いからもたらされた幸運を私が享受しているからなんだと思う。幸運とはつまり、言ってみればチャンスのことなのだろうか。
不運とは、チャンスに気づかずやり過ごしてしまうことなのだろうか。今年1年考えてみよう。
ひとりじゃ絶対無理だった。ヒトからもたらされたチャンスがなかったら、いくら私の中にやる気がみなぎってたって私はどこにもたどりつくことができなかった。チャンスをもらたしてくれるヒトがあって、私の背中を押してくれるヒトがあったから、私は単純にたのしく頑張ってさえすればどうにかなってきたのだ。例えば起死回生が今度こそできないんじゃないかってな時にもね。そんなヒトがなければ、私はハムスターみたいに、頑張って頑張って頑張って(なんて言うんだあのディバイス!)あの輪っかの中をはぁはぁっぜいぜい言いながらくたばるまで走っているだけだったと思う。
捨てる神がいて拾う神ありとはよく言ったもんだ。
ただ一つ、覚えておきたいのは、
『できません』って言うことについて。
日本語ではやりたくない時も、能力的に無理だという時も、ほとんどどっちも『できません』だと思うけど、
(やりたくなければ)I don't want to do it.
ってどんどん言ってもいいと思う。
だってやりたくないんだから(笑)
自分が、やりたくないからできませんなのか、自分の今持っているツールや力では無理と能力的に無理という意味で自分ができませんといっているのか、いつもはっきりさせてたいって思う。
日本人の輪の中では、できませんと言えば、あまり無理強いはされないような気がするけど、私が今いる環境では、(やりたくないから)できませんといえば、皆そっとしておいてくれると思うけど、
後者であったら、そんなできませんは絶対却下される。いや、却下され続けて来た。
I cannot do itって言っても、yes you can.でおしまいだ。やってもみないうちからなんでできませんとわかるんだ?できないのなら、できるようにしてあげるからやってみな。ってことになる。
まじかよ~!と何度も思ったけど、自分がそういう環境にいられることを『ありがたや』と結局思ってる。じゃあそうですかってお言葉に甘えていろいろやらせてもらっている。
そのかわり失敗してもいい。失敗から学べば。完璧なんか求めちゃいないぜって。
アラフォーにして、補助無しチャリを乗れるようになれと訓練を受けているようでもある。
アラフォーにして、いつも膝のかさぶたが耐えない。が、退屈するいとまがない。
そして思い返すと、小さなチャンスっていうのは、雑談の中から生まれてる。
恐るべし雑談。
ということで、私のフォーチュンクッキーは、神社仏閣でもない、チャーチでもない、パワースポットでもない、おみくじでもお参りでもない、タロットカードでも、風水でもない。コネでもない。私が今関わっているヒトたちなのであり、また、この人たちの出会いの種を成長させていくことであり、はたまた、芽吹いた種が成長できるスペースを気持ちの中に持つことなのであります。
そうすれば、のんきではありますが、おのずと、順風満帆とあいなってきたわけです。
私に関わってくれているヒトたちをすべて宝船に乗せとうございます。

2ヶ月近くずれ込みましたが、皆々様と一緒によりよい1年を過ごしていきたいと思っております。