interpersonal distance - 対人距離etc
真面目恋愛談議。
"The Hidden Dimension"という著書の中で、著者 E. T.Hallが、対人距離を4つに分類しています。
(対人距離(interpersonal distance)とは、相手との間におく距離)。
4つの分類は以下の通り。
密接距離 (intimate distance) : 15 ~ 45 cm。愛撫、格闘、慰め、保護の意識をもつ距離。→家族や恋人など
個人的距離 (personal space) : 45 cm ~ 1.2 m。相手の気持ちを察しながら、個人的関心や関係を話し合うことができる距離。→友人
社会的距離 (social distance) : 1.2 m ~ 3.6 m。秘書や応接係が客と応対する距離、あるいは、人前でも自分の仕事に集中できる距離。→店員と客、見知らぬ人など
公衆距離 (public distance) : 3.6 m 以上。公演会の場合など、公衆との間にとる距離。→講演会などで話し手と聞き手

画像拝借先:http://www.amazon.co.jp/Hidden-Dimension-Edward-T-Hall/dp/0385084765/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1277285725&sr=8-1
ホールは人類学者で、 "Beyond Culture"(文化を超えて)の著者じゃないですか。ミズーリで生まれ、サンタフェで亡くなっています。亡くなったのは2009年。
この相手の距離って恋愛やパートナーとの関係にとても大きな影響を与えていると思います。
この4つの分類をしたホールさんはアメリカ人。
こういうバックグラウンドもそれぞれの分類の距離の定義に影響しているんだろうか?
あんなに大きな国で生まれ育った人と、日本の東京のようなところで生まれ育ったような人とはスペースや距離への感覚に相違があって当然なのかしら?
日本の金曜日の”居酒屋”で、雨の日に男友達と待ち合わせて久しぶりに再会し飲んだ時、
向かい合って座ったんだけど、双方の間にあるテーブルの長さは多分、50cm以上75cm未満。この友達は清潔感の漂う人だし、リラックスして何でも話せる人で、かといって色気のある関係になるような可能性はないという男性です。けど、私にとっちゃこの50cm以上75cm未満というのは、近すぎて、残念なことに私は落ち着き感を得ることができませんでした。同じ友達と築地の”人気店”でランチをした時も、私は申し訳ないけれども、お寿司屋さんを出るまで生きた心地、、、は大げさならば、食べた心地がしませんでした。あの狭さ、人との接近感がものすごい圧迫感で、話しにもあまり集中ができないまま終わりました。
このような気持ちに陥った時に思うのって、、、、ゆったりとしたスペースが当たり前に育ったnon-japaneseさんたちが日本でどんな風に感じているかです。たった10年日本を留守にしていただけでこんなに息苦しいのだから、彼等にとっては不快指数は私よりも高いのかもしれません。人の殺到する人気店よりも、スペースにヨユウのあるちょっぴり暇くらいのお店の方がありがたい、、、(笑)
所変わってイギリスで、人との距離のような話しになった時にはイギリス人の友達はよく"personal space"という言葉を使っていたように記憶しています。問題ないと思う、あるいは快適だと思うpersonal spaceは人ぞれぞれ違うもの云々。


画像拝借先:http://en.wikipedia.org/wiki/Personal_space
外国にいると現地のヒト達からしばしば質問されて、東京のラッシュ地獄の状態(経験者は語るシリーズになっていた)、日本のアパートの狭さ(それでも彼女や彼氏を連れ込んだり、同棲や結婚をして共同生活をする人有り)なんかの話しになると決まって、"いや~人によってパーソナルスペースって違うから。我々は東京ほど土地の不足に困ってないから、スポイルされちゃってて、そんなのはきっと耐えられないな。。。”というのが定論だったと思います。つまり、日本で暮らす人の方が公衆距離が密接距離ほどしかなかったとしても耐えうると。
ところが、
今度は、ハグだとか、同じベッドで何年も何十年も一緒に眠ること、どれだけ頻繁にスキンシップをとるかなんていう極個人的な関係(恋愛や夫婦パートナーシップなど)となると今度はまるで上述とは矛盾するかのように、逆現象が起こることが多いようで、日本人の方が密接距離でいても良い相手(家族、恋人等)とより距離を取ろうとしてる、、、ような(そもそも日本人の中にもいろいろいるんですけど、おおまかな傾向として)。
あまり相手との距離が近いとべたべたしてくる、うざい、息苦しい、暑苦しいなど、より距離を取りたがるように感じるのは我々日本人という方が多いようで、彼等は、結構至近距離に立ってもどぎまぎせずに普通に話しを続けられるように感じられました。相手が友達とか同僚とか何らかの人間関係を形成している相手だったら(これが見ず知らずの大衆になった途端ものすごい嫌悪感を示すことが多い)。
ハグ~~!
や
キス~~!
となったら(恋愛抜きで)、相手が汗だくだろうが、お風呂に入っていなかろうがあまり関係ないようですらあります。
これって興味深くないですか~?
満員電車の中でアカの他人とものすごい至近距離にありながら平然と耐えている我々日本人。
うめき声もあがらない。降りますとか降ろして下さいとかさけばなくてもなんとなく降りたい人は降りられてしまう不思議さよ。あの人ごみchaosで殴り合いの喧嘩にならないのは日本だけかもしれない。
いいえ、日本人だって満員電車が快適だと思っているわけではあらしません。できればあんな思いしたくない<
と思うのも事実。けれど、結局おやすみの日にも都心へ都心へと出向いて行ってしまうかなしき習性も事実といえば事実。これって日本の外側から見ると、わざと殺到する方へする方へと出向いて行く飛んで火にいる夏の虫的行動。はたまた民族の大移動状態。
満員電車、、、いやだな~と思っても、やっぱり1時間早く起きて時差出勤するんだったら、満員電車にゆられてしまうようなところ、、、我々日本社会にはあるじゃない?高度成長期からもう数十年。なんのかんのいって首都圏の通勤者は文句をいいながらも、変革も求めず、依然として満員電車に乗っているのも事実なわけで。あの中で慣れれば慣れたで居心地の良さを見いだし、寝ちゃったりもするわけで(笑)こういうのは世界の脅威なわけです(笑)
なんていう我々日本人と、日本の外で生まれ育った人が親しくなると、スペース/距離的なものでも感覚の差異に気づきます。
もちろん一重に日本の外といえども、192カ国世界には国があるんだから、一言で言えないし、その上、どんな社会的階層で暮らしているかでもちょっと見解は違ってくると思いますが。
西洋圏では映画さながら、恋人同士が唇と唇がくっついてしまうような距離で平気で会話をしていたりしますね。
こういうことが苦手、、、というかスキンシップという経験が非常に貧しい状態で、大人になり、いきなり西洋圏のこの接近モードに晒されると、きっと我々は、引いてしまいたくなるなんてことも多いんじゃないでしょうか? リアクション的には引いてしまうのだけど、(多くの人がすでに指摘しているように)、日本の女性はこういう優しいタッチや優しい言葉なんかにころりと参ってしまい、あっという間に心も身体も許してしまう。とっても愛されて、とっても大切にされて、とっても自分に相手が思い入れているように感じてしまうのでしょう。
彼のことは好き。べたべたされるのも嫌いじゃない。こうしたさりげないスキンシップも嬉し恥ずかし、、、でもなんだか落ち着かないし、気がつくと、まるでうまく”かわすかのように”こちからからは改めて距離を取ろうとしてしまう。。。なんてことないですか?対処法がわからないというか、、、。
嬉しいわ~と思っても、
oh yeah, come on baby give it to me!!!
というのは、頭の中にある日本人女性としての良い女(=淑女、はたまた良妻賢母)とはちょいと違うわけですから(笑)どうせなら多少は大和撫子風に相手を射止めたいと、、(笑)obvious,directな意思表示をとことん避けようとするのが我々日本人ですから。しっかり勝負下着を付けて挑んでも、恥じらってみせたりしないとというrituralがあるわけっすよね?と同時に型にとらわれてないわよ~という型にとらわれてしまう人がでてしまってり、、、。複雑です。
<関連サイト>
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_T._Hall
http://en.wikipedia.org/wiki/Personal_space
つづく
真面目恋愛談議。
"The Hidden Dimension"という著書の中で、著者 E. T.Hallが、対人距離を4つに分類しています。
(対人距離(interpersonal distance)とは、相手との間におく距離)。
4つの分類は以下の通り。
密接距離 (intimate distance) : 15 ~ 45 cm。愛撫、格闘、慰め、保護の意識をもつ距離。→家族や恋人など
個人的距離 (personal space) : 45 cm ~ 1.2 m。相手の気持ちを察しながら、個人的関心や関係を話し合うことができる距離。→友人
社会的距離 (social distance) : 1.2 m ~ 3.6 m。秘書や応接係が客と応対する距離、あるいは、人前でも自分の仕事に集中できる距離。→店員と客、見知らぬ人など
公衆距離 (public distance) : 3.6 m 以上。公演会の場合など、公衆との間にとる距離。→講演会などで話し手と聞き手

画像拝借先:http://www.amazon.co.jp/Hidden-Dimension-Edward-T-Hall/dp/0385084765/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=english-books&qid=1277285725&sr=8-1
ホールは人類学者で、 "Beyond Culture"(文化を超えて)の著者じゃないですか。ミズーリで生まれ、サンタフェで亡くなっています。亡くなったのは2009年。
この相手の距離って恋愛やパートナーとの関係にとても大きな影響を与えていると思います。
この4つの分類をしたホールさんはアメリカ人。
こういうバックグラウンドもそれぞれの分類の距離の定義に影響しているんだろうか?
あんなに大きな国で生まれ育った人と、日本の東京のようなところで生まれ育ったような人とはスペースや距離への感覚に相違があって当然なのかしら?
日本の金曜日の”居酒屋”で、雨の日に男友達と待ち合わせて久しぶりに再会し飲んだ時、
向かい合って座ったんだけど、双方の間にあるテーブルの長さは多分、50cm以上75cm未満。この友達は清潔感の漂う人だし、リラックスして何でも話せる人で、かといって色気のある関係になるような可能性はないという男性です。けど、私にとっちゃこの50cm以上75cm未満というのは、近すぎて、残念なことに私は落ち着き感を得ることができませんでした。同じ友達と築地の”人気店”でランチをした時も、私は申し訳ないけれども、お寿司屋さんを出るまで生きた心地、、、は大げさならば、食べた心地がしませんでした。あの狭さ、人との接近感がものすごい圧迫感で、話しにもあまり集中ができないまま終わりました。
このような気持ちに陥った時に思うのって、、、、ゆったりとしたスペースが当たり前に育ったnon-japaneseさんたちが日本でどんな風に感じているかです。たった10年日本を留守にしていただけでこんなに息苦しいのだから、彼等にとっては不快指数は私よりも高いのかもしれません。人の殺到する人気店よりも、スペースにヨユウのあるちょっぴり暇くらいのお店の方がありがたい、、、(笑)
所変わってイギリスで、人との距離のような話しになった時にはイギリス人の友達はよく"personal space"という言葉を使っていたように記憶しています。問題ないと思う、あるいは快適だと思うpersonal spaceは人ぞれぞれ違うもの云々。


画像拝借先:http://en.wikipedia.org/wiki/Personal_space
外国にいると現地のヒト達からしばしば質問されて、東京のラッシュ地獄の状態(経験者は語るシリーズになっていた)、日本のアパートの狭さ(それでも彼女や彼氏を連れ込んだり、同棲や結婚をして共同生活をする人有り)なんかの話しになると決まって、"いや~人によってパーソナルスペースって違うから。我々は東京ほど土地の不足に困ってないから、スポイルされちゃってて、そんなのはきっと耐えられないな。。。”というのが定論だったと思います。つまり、日本で暮らす人の方が公衆距離が密接距離ほどしかなかったとしても耐えうると。
ところが、
今度は、ハグだとか、同じベッドで何年も何十年も一緒に眠ること、どれだけ頻繁にスキンシップをとるかなんていう極個人的な関係(恋愛や夫婦パートナーシップなど)となると今度はまるで上述とは矛盾するかのように、逆現象が起こることが多いようで、日本人の方が密接距離でいても良い相手(家族、恋人等)とより距離を取ろうとしてる、、、ような(そもそも日本人の中にもいろいろいるんですけど、おおまかな傾向として)。
あまり相手との距離が近いとべたべたしてくる、うざい、息苦しい、暑苦しいなど、より距離を取りたがるように感じるのは我々日本人という方が多いようで、彼等は、結構至近距離に立ってもどぎまぎせずに普通に話しを続けられるように感じられました。相手が友達とか同僚とか何らかの人間関係を形成している相手だったら(これが見ず知らずの大衆になった途端ものすごい嫌悪感を示すことが多い)。
ハグ~~!
や
キス~~!
となったら(恋愛抜きで)、相手が汗だくだろうが、お風呂に入っていなかろうがあまり関係ないようですらあります。
これって興味深くないですか~?

満員電車の中でアカの他人とものすごい至近距離にありながら平然と耐えている我々日本人。
うめき声もあがらない。降りますとか降ろして下さいとかさけばなくてもなんとなく降りたい人は降りられてしまう不思議さよ。あの人ごみchaosで殴り合いの喧嘩にならないのは日本だけかもしれない。
いいえ、日本人だって満員電車が快適だと思っているわけではあらしません。できればあんな思いしたくない<
と思うのも事実。けれど、結局おやすみの日にも都心へ都心へと出向いて行ってしまうかなしき習性も事実といえば事実。これって日本の外側から見ると、わざと殺到する方へする方へと出向いて行く飛んで火にいる夏の虫的行動。はたまた民族の大移動状態。
満員電車、、、いやだな~と思っても、やっぱり1時間早く起きて時差出勤するんだったら、満員電車にゆられてしまうようなところ、、、我々日本社会にはあるじゃない?高度成長期からもう数十年。なんのかんのいって首都圏の通勤者は文句をいいながらも、変革も求めず、依然として満員電車に乗っているのも事実なわけで。あの中で慣れれば慣れたで居心地の良さを見いだし、寝ちゃったりもするわけで(笑)こういうのは世界の脅威なわけです(笑)
なんていう我々日本人と、日本の外で生まれ育った人が親しくなると、スペース/距離的なものでも感覚の差異に気づきます。
もちろん一重に日本の外といえども、192カ国世界には国があるんだから、一言で言えないし、その上、どんな社会的階層で暮らしているかでもちょっと見解は違ってくると思いますが。
西洋圏では映画さながら、恋人同士が唇と唇がくっついてしまうような距離で平気で会話をしていたりしますね。
こういうことが苦手、、、というかスキンシップという経験が非常に貧しい状態で、大人になり、いきなり西洋圏のこの接近モードに晒されると、きっと我々は、引いてしまいたくなるなんてことも多いんじゃないでしょうか? リアクション的には引いてしまうのだけど、(多くの人がすでに指摘しているように)、日本の女性はこういう優しいタッチや優しい言葉なんかにころりと参ってしまい、あっという間に心も身体も許してしまう。とっても愛されて、とっても大切にされて、とっても自分に相手が思い入れているように感じてしまうのでしょう。
彼のことは好き。べたべたされるのも嫌いじゃない。こうしたさりげないスキンシップも嬉し恥ずかし、、、でもなんだか落ち着かないし、気がつくと、まるでうまく”かわすかのように”こちからからは改めて距離を取ろうとしてしまう。。。なんてことないですか?対処法がわからないというか、、、。
嬉しいわ~と思っても、
oh yeah, come on baby give it to me!!!

というのは、頭の中にある日本人女性としての良い女(=淑女、はたまた良妻賢母)とはちょいと違うわけですから(笑)どうせなら多少は大和撫子風に相手を射止めたいと、、(笑)obvious,directな意思表示をとことん避けようとするのが我々日本人ですから。しっかり勝負下着を付けて挑んでも、恥じらってみせたりしないとというrituralがあるわけっすよね?と同時に型にとらわれてないわよ~という型にとらわれてしまう人がでてしまってり、、、。複雑です。
<関連サイト>
http://en.wikipedia.org/wiki/Edward_T._Hall
http://en.wikipedia.org/wiki/Personal_space
つづく