met a pub fairly - パブの妖精にあった part2


人生には不思議な出会いがあり、不思議な再会があるものだ。今日はイギリス滞在中に起きたそんなことについて。パート2でござんす。

所変わって、イギリス南西部のケント州でのこと。
今となってはbest family friendsの友人3人とパブでランチをしようということになった。
この3人、実は親子三代で、私のお友達です。おばあちゃん、おかあさん、むすめといえば分かりやすいかな。特に私が仲良しなのは、このうちのむすめをぬかした2人だったんだけど。

当初は親子3代で私のやるエアロビクスのクラスに来てくれていたのね。

久々の再会(2.5年振り)。向かったのは地元ですっかり定着しているパブ、

malta inn

リバーサイドにあるからかパブの外にでるとすっかり雰囲気はのどかで、chathamなんかに近いことが嘘のようなパブだ。

我々のテーブルの脇を若者が通り過ぎた。胸には乳幼児をかかえていたようにみえた。

通り過ぎてしまってから、私の記憶のひだに彼の顔がひっかかりはじめた。

んーっと誰だっけ?
どこであったっけ?
どこかのジムのメンバーさんだっけ?

あ、でも思い出せなくてもまあいいや。

私はまた懐かしい友との会話に戻ろうとしたんだけど、丁度その時、3人はお勘定についてあれこれ話しをしていた。お勘定を頼んだのになかなかこないと。

あら、それなら私がウェイトレスさんを呼んだるわと、

あちらからやってくるウェイトレスさんに向かって手を挙げた。

ら、そのウェイトレスさんの後ろ側のテーブルを陣取っていたようである例の青年がこちらに向かって手を振りかえしてきた。どうやら周りにいる取り巻きもこちらをうかがっているよう。。。


ああひらめき電球


ここで私はあの青年が、そして同席していた人たちが誰なのかやっとはっきりと思い出した。

丁度ぴったんこ7年前にこのファミリーと絶縁した。

この青年は、私の亡夫の姉の旦那の弟さんで、とりまきは、この青年やこの青年の兄(つまり亡夫の姉の旦那さん)のご両親だ。遠隔の親戚っていったらいいのだろうか??

ロンドン在住時の夫の末期癌の宣告で、夫の姉は我々がロンドンからケントに引っ越すことを強く希望した。義理の姉が強く希望したからそうなったのか、この義理の姉の旦那の家族が熱心に勧めてくれたからそういうことになったのか、いきさつは我々は知らなかったが、このパブであった青年が購入したばかりの家に引っ越して来て暮らさないかとこの遠隔の親戚が亡夫の姉を通して言ってきた。とても熱心に勧めてくれて、断る前に一度物件をみて欲しいとしきりにすすめてくれ、義理の姉、従妹、亡夫、私で車を飛ばしてケントまで出かけて行った日のことがまるで数ヶ月前のことのようだ。

それは、素敵な新築のタウンハウスだった。ヴィクトリア時代に全盛だったドックヤードの中にあり、環境、セキュリティもこの上ないものだった。2週間に1度の化学療法の治療にロンドンのセントポール寺院付近のセントバーツホスピタルに電車で通えるのかという心配もあった。いったい3ヶ月の余命と言われた亡夫は何ヶ月この先暮らすことになるのか先行きもまったく分からずといった状況の中で、亡夫は素直に、ごちゃごちゃとしたロンドンから引っ越せることに肯定的なように見え、私は彼が良いと思うようにすればいいと、彼の意向に従った。

それから我々は、遠隔の親戚の青年の所有するタウンハウスのうちのひとつで暮らすようになった。青年のご両親(亡夫の姉の義理の両親)もとても親切にしてくれた。ダイニングチェアよりもこちらの椅子の方が亡夫には楽だろうと、自分たちが長年使った椅子を1つ持って来て貸してくれた。病院の日には朝も早くから車で迎えに来てくれ、我々を鉄道の駅まで乗せて行ってくれた。我々が治療のためニュージーランドに行っていた時も、家をそのまま我々に貸しておいてくれただけでなく、植物に水をやりに定期的に行ってくれたりもした。近くにいてくれて心強い存在であった。

が、亡夫が亡くなって彼らの態度は豹変。

- なぜだかは私にはいまだにはっきりわからない。

私と亡夫の家族がぶつかったことが彼らを影響したのか、
亡夫がホスピスにいる最後の5日足らずを皆が皆じりじりと過ごしている時、彼らは私の義理の両親と姉を連れて食事にいったことが何度かあった。その際、敢えて私を避けて、ジョンが亡くなってから、家と私についてどんな風に対応して行こうか話し合ったのかもしれない。或は、彼らもほんの数カ月だと思って家を貸し出したものの、亡夫が16ヶ月生きたということは予想外の出来事だったのかもしれない。

夫が亡くなって二日後に、『いつでていくのか。3ヶ月もあれば十分出て行く準備もできるだろう』と義理の兄がまず口火を切り、その後冷酷きわまりない印刷されたレターが、この家の持ち主である青年の両親から届いた。一切の所有物を期日以内に一掃すること。3ヶ月の期限以内に物件の明け渡しができなければ、法的処置をとるくらいのことが書かれていたと思う。更に、万が一どうしてもこの物件に留まりたいというのであれば、正規のルートでエージェントを通して契約を履行するように。但しエージェントにはエージェントの基準があって私がその基準を満たしてない場合は自分たちは一切手を貸すことはしないと。

期日までに家を明け渡すのは、悪いけど信じられないくらい大変だった。
その間も冷たいnagging letterが何度か届いた。

とても良いテナントが着きそうだからとっとと出て行ってくれ

ってなもんだった。

いつまでもたもたしてるんだい、お嬢さん。事態は変わってるんだぜ。

まるでそんな感じだった。

なんでこんなに豹変してしまったのか、さっぱりピンとこなかった。
いろいろ考えた。

私がイギリス人じゃないからか?

私がいろいろと言い訳をいっては最後には物件にどうにかして居残ってしまおうと企んでいると思ったのか?

私が亡夫の葬儀を亡夫の誕生日に行ったことで亡夫の両親を怒らせたからか?

どうしても一層式の洗濯機が自力で取り出せなくて、それだけが期日の翌日になってしまった。
それすらも受け入れ難いようだった。

以前に貸しておいた椅子はどこだ?と『取り返すこと』に躍起になってるみたいだった。

そんな風にして私とこの遠隔の親戚は会わなくなった。

そして丸々7年経ち、こうしてばったり出くわしたのだ。


家族は、遠目に彼らのいるテーブルから全員で私を一旦見極めて、その後は、一切こちらを見なかった。

私は、自分が"hi"と屈託なく挨拶に行けるところまで自分がまだたどり着いてないことを知った。
”hi"は言えても、それ以上は無理なような気がした。

後になってそれでも思った。


亡夫か、はたまた他のholly spiritか、(even a pub fairy!!!)知らぬが、そんなスピリチュアルな何か/誰かが、私のうちに今だニ残るしこりというか、bitternessというかそんな負なものを私がlet it goできるチャンスをやろうと我々を巡りあわせてくれたのではあるまいかと。

だとしたら、私は稀な機会を逃したことになる。

亡夫は私の問いに絶対に言葉ではもう答えない。


今日は、この土地じゃあ、お盆。