John Lennon - Mother ジョンレノン マザー


(clock chiming)
Mother, you had me but I never had you,
I wanted you but you didn't want me,
So I got to tell you,
Goodbye, goodbye.
Farther, you left me but I never left you,
I needed you but you didn't need me,
So I got to tell you,
Goodbye, goodbye.
Children, don't do what I have done,
I couldn't walk and I tried to run,
So I got to tell you,
Goodbye, goodbye.
Mama don't go,
Daddy come home.
Mama don't go,
Daddy come home.
Mama don't go,
Daddy come home.
Mama don't go,
Daddy come home.
Mama don't go,
Daddy come home.
Mama don't go,
Daddy come home.
Mama don't go,
Daddy come home...


何て心が痛くなるリリックなんだ。
このリリックの中には難しい言葉は一切存在してない。
3歳児でも十分分かる言葉ばかりだ。このような言葉こそ、パワーを持つ。心や感情との直結度が高い。
しかも、あのインダストリアルな港町リバプールで、、、イギリスの寒さや、薄暗さや、階級システムや、そんなこんなを思い返すと尚更心が重くなる。


混乱しちゃいそうだ。


親(絶対的存在)に受け入れられなかったり、拒否されたりという親子関係に陥ってしまった影響って、一生ひきづってしまうもの。子供の時に一番大切な存在である父親や母親にから受けた言動(良くも悪くも)が、以後の恋愛どころか、セックスライフにまで影響を及ぼすくらいだものねー。ベッドの中に恋人といる時に、親の声を聞くような時ってない?

コドモにとって親から否定されるのほど、痛いものってないと思う。親の愛情を失わないためならなんだってするだろう。媚びるだろうし、嘘もつくだろうし、泣き叫びもするだろうし、反抗すらする。

この曲の中のJohn Lenonの悲痛な叫びは、決してイージーリスニングなバックグラウンドミュージックとして小気味いいもんじゃないし、とくに英語の歌詞など構わずに、フィーリングで外国の音楽を聞いていた頃など、気にもとめなかったけど、今こうして歌詞を眺めていると、彼の幼い頃の傷が浮かび上がってくるようだ。

でも彼は
good byeって。
let it goさせる心の準備というか覚悟というかができたみたいでありーの、
もうそんなことは乗り越えて進んで行こうという決心をしたようでありーの。
good byeという今の思いと、mama, don't goなんていう悲痛な叫びが共存しているように感じられて、ちとつらい。

親の愛情を思うように得られなかったと感じる子供にとっては人生で一番最初につまづく人間関係は親子関係だろう。

愛(与える側でも与えられる側でも)におおらかな人って、親の愛情をふんだんに「感じて」大きくなった人が多かったりするのかもって思っちゃうんだよね。でもこういってしまうとかなり語弊があるのも分かってる。ご両親の顔も知らずに育ったのにたおやかで慈愛に満ち満ちた人だってたくさんいるし。
つまり、要は、自分に注がれた某かの愛情を、十分だと満足して受け取ってきたか、まだ足りないわ、もっと欲しい、自分は十分なだけの愛情を与えてもらってないと沸々と不満を感じて来たかによるのかしら。同じだけ与えられても、ひとそれぞれ、受け取り方って違うから。

与えられた愛情が「十分ではなかった」って感じながら大きくなった人って、なかなか「愛されてる」状態で、平常心を保つのが苦手だったりしてない?
今受けているこの愛情をいつか失ってしまうんじゃないかとフリークアウトしたり、相手の愛情や関心が冷めてしまったら一大事と、人為的なあり方に考えを巡らせて、なかなかリラックスして愛されているこの甘美な状態に甘んじることができなかったり。シニカルになったり、deviousになったり、頭で恋愛関係を育もうとしたり。

恋愛で痛い思いをしたときなんかも、親の愛情をふんだんに「感じて」大きくなった人は、”基盤”があるから、例えばものすごいだまされた方をしても、全面的自己否定状態に陥っちゃったりすることもないんじゃないかな。だいぶひどい経験をしちゃったけれど、だからといって自分がこんな辛い思いをして当然のどうしようもない奴なんだとか、愛される資格のない奴なんだとか、そこまで自分を否定しないところに留まっていられるんだと思う。運命の悪戯や、受けた傷なんかを嘆いても、自らの人間性なんかまで自責の念にかられるこたぁない。基盤に、時間をかけてパパやママが教えてくれた、「私って愛されるべくかけがえのない存在なんだ」っていう血肉化されたベースのベースがあるから。

これがないのって厄介だ。

そんなゆるぎない基盤を誰もが欲しいから、持ってない人は、恋愛に求めようとするのももっともだ。
けれども求められた方にもこの基盤がなかったり、両方とも、依然の恋愛でさらに痛い思いをしていたりなんかすると、更に厄介になる。

こうして、恋愛はほっておくとどんどん複雑化し、かけひきになっちゃったり、ゲームになっちゃったり、勝ち負け事になっちゃったり、つまりどんどんブレインワークになっていってしまう。

やだやだ、そんなの。

昨日眠れずに、観ていたprison breakシーズン2で、マイケルが父親とご対面。今までのトラウマに彼なりにけりをつけて、父親を看取ったマイケル。父親の方も最後に一言、I love youとマイケルにいって他界。この一言でマイケルが受けた虐待のトラウマがどれだけ浄化されたのか?!



「お父さん、お母さん、僕はどこから来たの?」
「ゴミ箱から拾って来たんだよ」

最近だんだん古いことにはなってきてるものの、この類いの悪い冗談(?)が、中国ではまかり通って来たという。コドモがマジで「げっ」と思い、「やだやだ、そんなのいやだよう」と焦りまくる姿をみて「可愛い奴め」と思い目を細めるのか、このようなことで、笑いをとる/笑おうとするのは西洋にいったら、少なくともイギリスでは、ずぇったいに御法度だ。いくら冗談でも、いくら悪気がなくても。

コドモの好きなお菓子を、コドモが焦りまくると知っていて、(本当は食べちゃっていないのに)「ああ、あれならお父さんが食べちゃったよー。美味しかった」といって、コドモをはらはらさせたりという意地の悪い冗談も御法度だ。こういう類いの冗談とも意地悪ともとれない言動は、英語では頻繁にto teaseという動詞が使われる。ストリップのことは、英語でstrip teaseっていうけどそれと同じteaseだ。そしてteasingって、人の意識のなかでとってもいけないこととされている。からかうくらいの意味かな、ニホンゴだと。あとで辞書、みてみてください。

こんなこと(ゴミ箱から拾って来たとか、お前はバカだとか、器量が悪いとか)を言われちゃって(最悪の場合は鵜呑みにしちゃって)育って来ちゃったコドモ達が成長しておとなになった集合体と、自分は本当にこの世に感謝されるべくかけがえのない存在だと日々言葉や態度で証拠を与えてもらって大きくなった個人の集合体って、同じであるはずがない。勿論だけど、前者のが脆弱だ。つっぱしったり、崖っぷちでふんばったりするにはするし頑張るんだけど、やっぱり脆い。コンプレックスや焦燥感、罪悪感などという負の感情に突き動かされた行動は限界があるし、負の感情にのっとられちゃってる魂など、自給力があるわけない。




え”?



私?

私も「荒川に捨てられてたのを拾ってきた」なんていうくだならない冗談を父親に言われてでかくなりました。はい。しかも丸太ん棒のおばけという架空の悪役まで登場させて、自分だけ正義の味方にでっちあげている。でも当時、私にとって荒川とは、とても刺激的な遊び場だったし、本当の子じゃないという悲劇性はとても甘美だったから、荒川で捨てられてたという話しが本当だったらどんなにかクールなのに、って思ってたけど。