サムイ島に行こう! -2












コドモの頃、毎年夏になると、恒例のように泊りに行く海辺の民宿があった。何故か夏休み中、7月は海水浴、8月は山というトラディションが出来上がっていて、7月の海水浴については我々はその海辺の民宿のリピータだった。

あの頃から、更に日本人の生活は豊かになり、disposal moneyについては、世界一というくらい日本人はリッチになった。”disposal moneyに限っては”だけど。

と同時に選択肢が馬鹿みたいに広がった。学校でも塾でもボーイフレンドでも靴でもレストランでもアパートメントでも、選び放題になった。ライフスタイルも結婚式や海外旅行のスタイルもいろいろある。

何食べる?

という外食をするときの質問にも、無限な答えがある。
先日ちょっと触れたレストランじゃないけど、

このレストランについてはここ

『うーん、じゃあユーラシア料理屋さんで、チュニジア料理でも食べようか?』

なんて答えも可能になった。

食べ物に探求心の多い我々日本人が集まると、食べてみたいもの、行ってみたい店の数に、我々が外食をする頻度が追いつかず、よって同じ店のリピータになることがなかなかできなかったりする。一時帰国するとやっぱり行きたい温泉旅行もまたしかり。なかなか同じ旅館に戻れない。

あそこもなかなかだったけど、今度新しくできたところもなかなかの評判だから行ってみようか?

なんてことになり、あっちこっちに出没することになる。


もしかしたら他にもっとよいものがあるかも→だからもっと探してみよう

という私の気持ちは、だいぶ縮んだ。

地図を持参したり、ネット検索したりして、よりよいレストラン/宿を探そうという意欲が萎えているのだ。それよりはむしろ、驚きも発見もないけれど、行き方もメニューの内容も判っている場所や、今目の前に見えているお手軽な場所に”すんなり”行きたいのだ。バッグに地図だの、お店情報だのを入れて行くんじゃなくて、最小パースにグロス一本入れてすんあり行く方がむしろ好ましいと思うようになった。

それでも、西洋人と比べると、私もまだまだ目移りに目が泳いでるらしく、ボーイフレンドにもホテル予約をする時など結構辛辣に指摘されたりする。同じ予算でできるだけよりよいものをゲットしようという貧乏根性が見え隠れしてるらしく、ほかにもまだあるかもしれぬといつまでもリサーチをやめないくどさがあるらしい。2つか3つのオプションの中から一番よいと思われるものを選んでおしまい。それでいいじゃないかと。


多分、世界の中でも私は(私の年代の日本人として)選択肢がごまんとある人生を送ってくることができた果報者だ。選ぶ権利があるというのはありがたいことだ。これは間違いない。
けど、選ぶものが多くありすぎると、迷いが生まれてくる。迷っているという状態はどっちつかずで、散漫で、あんまり良いもんじゃない。ややもすると、迷いが混乱を生む。選択肢の多さに圧倒されちゃうのだ。そして最後には最悪の時には、”失って”しまう。

迷子になった挙げ句わからなくなって、失っちゃうのだ。

だったら初めから余計な選択肢なんてなくても一緒じゃん。

ってことになってしまふ。

バブル時代の東京での選択肢の多さを当たり前だと思ってた私がイギリスの田舎に飛び込んだ。
そこには最低限の選択肢しかなかった。物質に毒されてた私は、一軒だけある靴屋で靴を選ぶことや、一軒だけある店で必要なものを購入するなんてことにあまりにも慣れてなさすぎた。
靴が欲しけりゃ1軒だけある靴屋にいってその店にある靴の中から靴を一足選ぶのだ。気に入るものがないから買わない、で済むくらいならそれは別に靴を今買う必要は実はなかったってことになる。

銀座や渋谷で何店もあるデパートメントストアをくまなく練り歩いて、値段、デザイン、色、機能性, etc, etcを吟味した上でやっと決めるなんていう買い物とはかけ離れていた。




2nd thoughtがなかったといったら嘘になるけど(プーケットとかね)、今回、私はリピータになった。同じ宿のリピータになるのはもしかしたらあの、ピンクレディーが全盛だった頃の海辺の民宿以来かもしれない。

サムイ島で2ヶ月前に宿泊した宿に今回もお世話になった。前回滞在した部屋とまったく同じ間取りの部屋に滞在し、全く同じような朝食を7回食した。

そして、そうして良かったと思った。

『いらっしゃい』っていうよりも、『おかえり』ってな歓迎を受けてるような気持ちがして、なんだか心地よかったのだ。
未知なるところも捨て難い。けれど精神が求めるのは『訪ねて行く場所』よりも、『帰れる場所』なのかもしれない。