august - 八月 - 4

august - 八月 - 3からの続きです。


この位、日本風にいうと『重い』話題を外国人はしょっちゅうしている。戦争、歴史、政治、宗教、このような話題で議論することは日常茶飯事だ。かつてフランスのNancyっていう学生の街で、私は地元の大学生と一緒になってクラビングをしてた。当時これでも私は、チャーミングでフェミニンで物珍しいジャポネッセ(笑)。
それこそチャーミングでセクシーなフレンチボーイズがウインクしてくるし、言いよってもくる。けどそれだけじゃなかった。気がついたら、クラブの片隅で、5、6人のグループになって、『シュラク』について激熱な議論が交わされてた。チャラチャラしてるだけじゃ終わらない、おもしろおかしいだけはちょっと退屈なのがヨーロッパの社交の常で、そこらへんが日本と違うところだ。

日本とかってどちらかというとこういう話題をふるヒトが、招かざる客。
そういう話題は避けるもんだから、『議論』のトレーニングをする機会がない。
それで急に外国人に囲まれて、あれはどう思うか、これはどう思うかって議論をふられても、苦しいだけ。通り一遍なことを言ってその場を凌ぐけれど、それ以上のことは一切言えない。

去年のクリスマスに、私はアメリカで、アメリカ人のおじいちゃん(世界第一次大戦、第二次大戦、大恐慌を経験している)に、なんでパールハーバーを攻撃なんてしたんだ?
と聞かれた。
その聞き方が、

"why did you attack....?"

だったのがやけに『しみた』。『パールハーバーを攻撃したあんたたち日本人』を受ける"you"という2人称複数代名詞の中の私はひとりなのだ。

私はそれに答えられるには無知すぎた。『じゃあ、教科書には何て書いてあったんだ?』と聞かれて余計に困った。正直いってちゃんと覚えてない。確か、1941年、日本軍による真珠湾攻撃とかそんなもんくらいで、なぜに?なんてことはあんまり説明されてなかったんじゃないかなーと思うくらい。私だって、どうして日本軍はそんなことをしたのかなどと考えなかったと思う。

世界史的にはこれが世界第二次大戦の引き金となったかのように理解しているもんだから、このアメリカのおじいちゃんだけじゃなくっても『戦争を引き起こして、一目瞭然の負け戦に降参を意地でもしなかった』のが日本軍で、だから戦争を早く終わらせるためにも原爆を落とさざる得なかったってな理解のヒトが世界にはたくさんいる。

私は結局、乙女チックな感傷で、エモーショナルサイドの、はかなく散った市民の命についてにしか戦争について話すことができない。うっ。

けれども、あんな地獄は、もう2度とニンゲンの手で起こしちゃいけない。
60年間、その地獄と背中合わせに、その地獄から一瞬たりとも逃れることができずに、生きてきた人たちがいる。無関心じゃいけない。これは別に外国人との議論に勝つためじゃない。ひとりでも多くの世界の人たちに、我々が伝えたいメッセージは、我々がどれだけ被害を受けたかじゃなくて、こんなことがもう2度と繰り返されたくないってことなんだということを判ってもらいたいと。

そんな気持ちもあって、話しは前後するけど、1995年にボランティアの仕事で渡英した時、私は被爆した子供達が描いたという画集を持参した。たまたま渡英直前に降り立った駅前で、戦争反対の署名活動をされていた男性からこの絵本をお借りし、イギリスまで持っていかせていただいた。

私はこの絵本を1度、英国の小学校の生徒に見せる機会を得たのを覚えている。
Yuk(げー、気持ち悪い!)という反応があり、だから戦争はいけないね、やめようねとうまく授業がまとまらなかったのを覚えている(笑)。
これ以外は、何度か社会の先生方などに、話しを持ちかけてみたけど、暴力的すぎる、残忍すぎる(日本の子供達が平気で遊ぶヒトをなぐったり、やっつけたりして進んでいくコンピュータゲームなどにとても神経質なイギリスカルチャーである)といって断ってきた先生、あるいは私が、日本は正しい、非連名国が間違っていたなどと言いやしないかと神経質になった先生などがいて、この本は英国の学校ではあまり活躍しなかった。

英国人であった私の亡夫は、長崎の原爆記念館で、真っ青になり気分が悪くなった。too powerfulだったのだろう。

私のドイツ人の親友と初めて出会ったときは、ふたりこう話した。
『戦争責任の呪縛はもう勘弁して欲しい』
彼女も私もバックパックのまっただ中で、どこにいっても、戦争のことを問われちょっぴり傷ついていた。

私の亡夫の母親に初めて会った時、皺だらけの顔に、皺以外にも大きな深い線があるのを見つけた。
斜めに入った大きくて深い傷だった。戦時中に負った傷だという。どうか日本軍のものではないようにと私は願った。あの時私が感じた気まずさといったらなかった。話しを聞いてみると、ドイツ軍が攻撃をしてきた時に壊れたガラスの破片が飛んできて顔にあたったということだった。ほっとしたのを覚えている。
亡夫の母親と私の母親は同年代で、亡夫と私によって(一時だけになってしまったけど)『つながった』。
どちらの母親も戦争の被害者だ。2次災害も甚だしく受けていて、戦争故の貧しさに、人生を左右されている。敵国同士で。

それをいうなら、私のボーイフレンドは原爆を落としたアメリカ人だ。
きっと戦後日本人が生きるか死ぬかの瀬戸際で必死にもがいていた頃、リッチな大国アメリカで、使い捨てカルチャーにどっぷり使って大きくなった世代だ。

うーん、とりあえずキックでもしとくか!(笑)

日本の歴史を知ろうとする姿勢を保つこと。
これは日本人に生まれてきたからには『もれなくついてくる』ちょっとした責任のようなものなのではないだろうか?

そういうプチ責任は、コツコツとでも細々とでもとっていかなぁいけないなぁ。

知らないこと、お馬鹿であることが、あたかも好ましいような風潮があるのは、日本独特の風潮なのだろうか?「皆から愛される」ためには、余計な意見は言わない(日本のアイドルはチベット解放なんて政治的なことを叫ばない)、利口であるよりはおバカな方が人受けがいい。かまとと(知っているのに知らないふりをするのがよしとされる)などがまかり通るのは、この平和な小さな島の中だけなのかもしれない。
日本人がどんどんナイーブに、内向的になってしまったらやばい。

トラベル英会話をマスターしたら、少しだけ、戦争のこと、歴史のことを話せるようにしてみよう!

なんてこんな風に思うのも、私が嫌というほど、西洋で、ヒトと出会って話しをして、自分の無知さに辟易したからなの。自分は、問題意識をもったニンゲンだくらいに思ってたけど、思った以上に私の頭の中は、彼らに比べたら、物質的なものでいっぱいだった。美味しいもの、いかしたレストラン、ご機嫌なフィットネスシューズ、上手な美容院、そんながらくたばかり。あまりにも普通の人たちが、政治や戦争、平和、宗教などについてしっかりと自分の意見を持っているので驚いてばかりだった。自分をうすっぺらに感じるったらありゃしなかった(汗)。

ものを知らないということは、西洋では『決して面白いヤツにもなれない』ということに限りなく等しい。
日本の笑いは、バカやってなんぼだけど、witで笑わせていくジョークというのは、知っていなければ笑わせられないし、知らなければ笑うこともできない。

いくら英語の語彙があって、英語がよく判っても、この手の議論ができないと、『英語をあんまり喋れない』ヒトのくくりに西洋ではいれられてしまう。

ある程度深いところで議論ができてやっと、he speaks very good English./ his english is pretty goodなどと言われるようになるんじゃないでしょうかね。

そういう意味では、あんまり英語を『喋れてない』私。

8月に、日本にいられることの良い点のひとつは、こうして、日本という自分の祖国が大きく関わることとなった戦争について日本的な視点で向き合えることだ。テレビをつければいろいろな番組がこの歴史的事実を取り上げている。
海外にいると、エンペラーヒロヒトと、ヒットラーは同格。日本は当時かなりハードコアな軍事国家だった等、日本軍が海外で何をしたか、なんて面ばかりがクローズアップされるからなんだか自分の意識もそちらの方に向かっていってしまう。

日本にいる方がやっぱり、心静かに、お腹いっぱいご飯を食べる事も知らずに死んでいかなくてはならなかった多くの罪のないヒトビトの冥福を祈ることができるような気がする。

戦争経験者である祖父も3年前に他界、祖母も今年6月に他界した。
戦争が終わる前に生まれた両親も高齢者だ。出来る限り、戦争の話しを聞いておきたいと思う。おばあちゃんになったら反戦紙芝居を公園でやろう(笑)