「他人(ひと)の痛みを分かる人間になりなさい」
これも親が子どもによく言う言葉の1つではないでしょうか。同じように「他人(ひと)の気持ちを分かる人になりなさい」もよく聞きます。
幼稚園児などが人のモノをとって相手を泣かせたり、ブランコの順番待ちに割り込んで騒ぎになったとき大人はよく上のような言葉で注意します。
子どもの頃、しょっちゅう傍若無人ぶりを発揮していた私は親や先生、周囲の大人から「そんなことをされたらどんな気持ちになるか少し考えなさい!」と他人の気持ちを「分かるよう」叱られたものです。
傍若無人なふるまいは叱られて当然ですし、自分がされて嫌なことは他人にしないことは極めて大切なルールだと思います。
しかし「他人の痛みを分かるようになれ」という言葉はどうでしょうか。
この言葉を使う親は「人の気持ちが分かる共感力のある子に育って欲しい」あるいは「他者の身になって考えられる優しい子になって欲しい」という気持ちを込めて言っているのでしょう。
その親心は分かります。
それでも私はこの言葉に「他人に迷惑をかけるな」(⇒ココ)と同様の危険性を感じてしまうのです。
「他人の気持ちを分かる人になろう」
「他人の痛みを理解する人でいて欲しい」
これらの美しい言葉は一見、他者を思いやる優しい人間のあり方を示しているようにみえますが、安易に子どもに伝えることには注意が必要です。
人が人を理解することは大変困難です。
他者が何を考え、どんな価値観をもちどのような状況で傷つくかをあらかじめ知ることなどできないからです。
基本的に人は他者の気持ち(痛み)は理解できないと心得ておかなければなりません。
その前提に立って、それでも何とか他者を理解しようと試みる努力こそが尊いのではないでしょうか。
安易に「人の気持ちを分かれ」と言う背景には、他人の気持ちが簡単に理解できるはずという楽観すぎる人間観がある気がします。
この人間観はある意味傲慢かも知れません。
人と人は簡単に理解し合えるものではありません。もしそれほど簡単なら、どうしてこれほど人間関係の行き違い、トラブル、紛争が絶えないのでしょう。
世界から戦争がなくならないのでしょう。
人生の不幸や悲劇の大半は人間関係のトラブルに起因しています。
そしてその大きな理由として誰もが「自分を分かって欲しいが、でも分かってもらえない」という悩みが占めています。
これは当たり前であって、人と人はなかなか分かり合えないという前提を忘れているからです。
さらに追いうちをかけるように、私たちは幼いころから「他人の気持ち」を分かるようにつまり「他者優先」でいるよう言われ続けました。
その結果、自分を押さえて他者の顔色や空気を読む習性を身につけてきました。
自分の気持ちを分かっていない人に他者の気持ちなど理解できるはずはありません。
だから自分の気持ちに常に気づいていること。自分を分かってあげることが最大のポイントです。
これができて初めて他者理解へと歩を進めることができるのです。
自分を分かってあげること。自分は自分に分かってもらえないことを悲しんでいると気づくこと。自分とまずコミュニケーションをしっかりとることが基本中の基本です。
こうして自分を大事にすると不思議なことに他者と心が通じ合う場面が増えてきます。
人間は表面上の違いはありますが、深い領域ではつながっているからでしょう。
口先だけの社交辞令的なコミュニケーションを超えて、深い部分での共通理解に達したとき私たちは真のコミュニケーション、互いの違いを認めながらも親密な交流ができるのです
他人を理解することはできないが、その表面的な違いを超えてつながることはできる。そのためには自分の気持ちに正直になり自分を大切にすること。
そうすれば結果として自分と異なる他者の価値も認めることができ、真のコミュニケーションの可能性が開く。
だから「他人の気持ちをわかってあげよう」とするのではなく、自分を理解すること。常に自分の気持ちをこそわかってあげるよう努めよ。