(※当時の学校のことについてはうろ覚えな部分や主観が入っています。若い私には分からなかったけれど、ほかの先生たちにもそれぞれ考えや守る物があったのだろうと今は思います。)

 

 

 高校教師になりたいと思ってはいたものの、受験嫌い、流れに対応すればいいやという性格のせいで大学4年の夏の採用試験は気づいたら終わっていました。大学院に行こうか、どうしようかと適当に考えていたら、年度末になって香川県の私学の採用試験を見つけて、これまたあまり深く考えずに受験しました。そしたら受かったのでいやだったら数年で関西戻ればいいやくらいに考えて香川県は丸亀市に引っ越しました。

 

 赴任して初めて知ったのですが、そこは県内最下位の底辺校で、制服を着ていると「あー○○や」と後ろ指を指されるような学校でした。私が通っていた高校や大学とは正反対の学校、家庭環境が複雑な子、小学校や中学校はほとんど行っていない子、ヤンキーや素行の悪いいわゆる問題児、勉強がまったくできない、グレーゾーンや発達障害の子、他人と関わるのが苦手な子、モンスターペアレント…それはもう、いろんな子や親がいました。

 

 さらに、経営的にも非常に悪評高い学園で、家族からも見放されたようなワンマンな理事長とそこに輪をかけて面倒な後妻の副理事長。自分の気にくわないと車で2時間くらい離れた姉妹校に飛ばしたり、いやな仕事を与えたりして徹底的にいじめる、だからおかしいと分かっていても誰もモノが言えない、そんな環境の中で、20年30年とやってきている先生たちばかり。私が赴任したとき、20代はほかに一人もおらず、30代40代もまばらであとはほぼ50代でした。そして多少なりとも賢い、要領のいい先生はなるべく自分が楽で、いいかっこをしながら面倒なことは他の人にやらせることに頭を使い、少しでも早く帰宅することに精を出し、要領の悪い先生のところに大変な仕事が集中するので行事やいろんな活動がうまく回らない状態でした。職員会議では理事長の息のかかった、嫌みで仕事をしないくせに口だけはたつ教頭や、単に理事長の犬みたいな校長を恐れて、誰も言うべきことを言わない、たまに言う先生がいても後押しする先生がいないのでうまくいかない、というような最悪な環境でした。

 

 私は父親に似て、権力には屈さず、自分が正しいと思うことを貫く方だったので、最初から職員会議などで発言し、目をつけられていました。周りの先生たちからは「もっと言って」と重宝がられましたが、かといって後押ししてくれるわけではなく、上からは、若い小娘が一人で騒いだところで、となめられていたと思います。

 

 私は家庭科で教科主任と二人きりだったので、大変なクラスはすべて任され、授業数も多く、始めから非常にハードでした。寝る時間とご飯とトイレ以外仕事をしているような中で、教科指導も自分なりに一生懸命やっていました。でも生徒はそもそも勉強に興味もないし、親が高校くらいは卒業しろと言うから来ているくらいのもので、授業以前の問題の方が多いくらいでした。だんだん、「私はこんなにがんばっているのに、あんたたちのその態度はなんだ」と思うようになり、常にヒステリックに怒るようになってしまいました。高校の部活の時と同じような状態になってしまったのです。

 

 赴任して2年目の時に、学校で全国誌に載るような大事件が起こりました。組合活動をしている先生の書類を、理事長のスパイになった先生が盗んで、そこから職員朝礼が紛糾し、生徒にも派生して、授業のボイコットのような状態になりました。私もその頃には組合に入っていましたが、そこでも自分なりに学校をよくしたい、生徒のためにも先生たちのためにも、もっとクリアでいい職場にしたい、と自分ができる限りのことをしていました。休みもなく、当時付き合っていた彼氏やテレビ局に勤めていた友達にも協力を仰いで、連日の組合会議では誰に言われなくてもPCを持ち込んで全部同時で記録して、それをみなさんに配布したりしていました。でも、結局ほかの先生たちは最後まで自己保身を辞められず、いいとこ取りをしようとしました。正義と理想に燃えてがんばっていた若い私は、大人のずるさを見せつけられて、心底いやになりました。給料もほかの先生たちの半分くらいで、別にほかの先生たちのように無理にここに残らないといけないほど守るものもない自分が、身を削って他人のためにがんばるのがばからしくなり、組合を辞めました。仕事に対する向き合い方も大きく変わりました。他人には期待しない。他人の分まで背負わない。正しさを追い求めて大きなものを変えようと思わない。まずは自分の無理なくできる範囲で、できることだけをする。できないことに挑み続けるのではなく、できたことを喜ぶ。授業の方も教材を一通り作って少し楽になっていたので、そこからはなるべく早く帰ってアフターファイブを充実させようとダンスを習い始めました。自分の時間ができ、好きなことを楽しみ、また、自分が「生徒」の立場になると、少し心の余裕ができて、できない生徒の気持ちもわかるようになりました。そうすると、授業中も笑顔が増え、少々生徒の態度が悪くても笑って許せるようになり、そうなると生徒の態度も軟化してきてだいぶ楽になりました。

 

 正しく生きることより、楽しく生きること、その方が互いに人を幸せにするのだと思いました。特に父親の影響で、正しく生きること、そのために活動すべき、を強く植え付けられていたし(父はずっと組合活動をしていました)、そういう環境に置かれると父と同じ血が流れている自分は、つい、突っ走ってしまいがちだから、なるべくそういう環境に自分を置かないことが、自分が楽しく生きる道なのだと痛感しました。

 

 もちろん、生徒のことをかわいいと思ったし、楽しく笑い合えることもあったけれど、やっぱりどうしても自分は「子供という(学校における)弱者」に関わっていると「自分がなんとかしてあげないと」という気持ちが強くなり、仕事以外の時間でも心がずっと仕事のことにとらわれて体がどんどん蝕まれていきました。肩こりや腰痛に始まり、夜眠れないくらいの胃痛が月に1回は来ていたし、口唇ヘルペスやじんましんもしょっちゅうできていたし、学校行事の前後には膀胱炎にもよくなっていました。しまいには数ヶ月間声が出ないような花粉症と年中お腹が痛くて下痢をしているという過敏性腸症候群で苦しみました。病院も行きましたが、何一つ良くなったことはなかったです。

 

 25才くらいからは疲れたらリラクゼーションマッサージにしょっちゅう行くようになっていました。また28才くらいからはサーフィンにはまり、毎週末香川を脱出して高知まで約4時間かけて行くようになりました。マッサージやサーフィンがあることでなんとか学校を続けられていましたが、結局ストレス性の症状や、体のクセが原因の症状は病院や薬では治らない、まずはマッサージなどで体を癒すこと、さらに趣味で体を動かすことで心まで癒すこと、そうやって自分の体は自分で守らなければ、誰も守ってくれないのだと思いました。そして31になる年、もうこれ以上他人のために自分の体や心を痛みつける人生はいやだ、これからは何を置いても自分の健康美を優先して生きていきたいし、健康美で人の人生を助けたい、と思い、教師を辞めました。

 

 周りからは「教員を辞めるなんてもったいない」と言われましたが、私は、自分の健康を他人のために犠牲にする人生を送り続ける方がもったいないと後悔は一ミリもありませんでした。目の前にいる生徒たちに関してだけは後ろ髪を引かれる思いがありましたが、自分の幸せを守れるのは自分だけ、何かを得るために何かを捨てるのは当然だと割り切って決断したら、その瞬間から体調はよくなっていきました。

 

 心身ともに本当に大変な20代でしたが、いろんな生徒を見たことで、自分がいかに恵まれてきたかわかり、親や環境により深い感謝ができるようになったし、この苦しさに比べたら少々のことは我慢できる、と思えるようになったので、本当にいい経験をさせてもらったと感謝しています。二度と戻りたくはないですが、笑。