私がまだ中学生だった頃、両親の友人だったリエさんという方に初めて神宮球場へ連れていっていただきました。原宿でお買い物をしたり、おしゃれなレストランでお食事をしたり、それだけでも楽しかったというのに、彼女は、「これからもっと楽しいところに連れていってあげる」と言って、私を夜の神宮球場へ連れていってくれました。

私が初めてみた試合がヤクルトとどこのチームの対戦だったか、まったく記憶にありません。ただ、初めて入った球場の景色と、それを覆う雰囲気の中で、わけもなく興奮したことをよく覚えています。

リエさんは私に、今のメガホンよりも大分大きなメガホンと、これまた今のものよりも相当大きな緑色のビニール傘を買ってくれました。

その日の勝敗も記憶にないのですが、ひととおりの応援の流儀を教えてもらい、しっかり9回楽しみました。

これが私がプロ野球を好きになったきっかけでした。

試合の途中でリエさんが教えてくれました。

「もう少しすると、有名なおじさんが来るわ。その方は毎日ここへ来て、応援をまとめるの。すごい方なのよ」

その「有名なおじさん」とは、岡田正泰さんのことでした。

どういうわけか、リエさんは岡田団長のことを「近所のクリーニングやさん」と言っていたのですが、何年も経って、岡田団長は杉並区永福町で看板屋さんを営んでいた方だったということを知りました。

すっかり野球にはまった私は、折にふれて神宮球場、横浜球場、後楽園球場へ足を運ぶようになりました。私が親のいいつけを破ってひとりでプロ野球観戦に行っていたことはこれまでも幾度か当欄でふれてきましたが、リエさんの言ったとおり、神宮球場は私にとって原宿よりもおしゃれなレストランよりも「もっと楽しいところ」になりました。

昔、神宮球場はガラガラだった――という話を聞きますが、私がよく行った年の外野席はいつもたくさんの人でいっぱいだった気がします。とはいえ私はいつもひとりだったので、どこでも席をとろうと思えばとれたと思うのですが、今思えば、学校が遅くなったか何かで球場に着いたのが遅かった日があったのかもしれません。座る席がなくて、私は席を探していました。その姿は見るからに「困っている少女」だったのでしょう。

「座るところがないならそこへ座れ」

そう声をかけてくれたのは、リエさんが教えてくれた「有名なおじさん」、岡田団長でした。

大人になった今では「いえいえ、そんなわけには」と遠慮のひとつも言えるというものですが、中学生だった私はすぐにお言葉に甘えて団長の前に座らせていただきました。そして、なんだかものすごく緊張したことだけが記憶に残っています。

ほどなくして受験勉強が始まり、高校は寮生活、大学は外国だったために、私のプロ野球応援には空白の年月があります。それでも、この出来事は忘れたことはありません。大人になって、いまこんなにもヤクルトスワローズが好きになったのも、あのときの出来事がひとつのきっかけになっているような気がします。

あの日、緊張などせず、もっといろいろお話をうかがいたかった。後悔してもはじまらない後悔を、いま、しています。

『東京音頭』に乗って傘を振って応援するスタイル、応援傘の由来…、みんな岡田団長が亡くなられてから知りました。最初のトランペット奏者は神宮外苑で練習をしていたひとりの浪人生だったそうで、なんでも団長が口説いて応援団の一員にしたのだとか。そのようなことも、最近になって知りました。

今日は岡田正泰団長のご命日。ヤクルトスワローズファンの根底にある「心」の由来に、あらためて思いをいたしたいと思ったことでした。

(参考:「週刊ポスト 2014年3月14日号」)



今日の試合の勝敗は、、、
広島14―1ヤクルト
敗戦のショック大きく、今日は試合内容のふりかえり中止します。
14失点はないよーえーんえーんえーん
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