アメトピで紹介されていた記事がとっても素敵でした
こんな(風に思える)お母さんに育てられるって、本当に幸せなことです
子育ても自立した子育てをしているだろうなと思い、何個か記事を拝見
泣けた
この記事で、私は感動して泣けた
素敵な記事だったなあ~
語彙力がないので表現が難しいですが、家族という土台がしっかりしている、付け焼刃ではない安定感がしっかり伝わる
私は常々、呪いは受け継がれるといっていますが、幸せも受け継がれるという当たり前のことを言い忘れていました。
幸せな人、幸せな人生というのは、富や名誉がどれだけあるかということではなく、人を愛せる力を持つことです。
愛される力ではありません、愛する力です。
人は、愛されることによって満たされ、精神が成長していくのです。
愛されることによって満たされ、精神が成長し、誰かを愛することができます。
言い換えると、愛された経験という記憶がないと、身体だけ大人になって精神は幼児のままなのです。
それが、オムツを履いた母です。
(もちろん、オムツ父もいます。)
オムツを履いた母というのは、自分のことしか考えられないんです。
自分にとっての損得だけを考えて生きています。
子供のオムツを変えるにも、汚物だという認識しかできません。
オムツを変えてもらった子供が気持ちよくなって嬉しい、という一番コアな認識は皆無です。
食事も、食べたか食べないかが大事で、どのように食べるかには関心がない。
自分の持っているものを、子供に与えることを嫌がります。
家族のために稼ぐというのも、苦痛です。
子供が上手にできたものを持ってきて見せても、心から褒めることができません。
子供の教育のために本を読んであげることができても、子供の心のために読んであげることはできません。
酷いときには、本を読んであげること自体が苦痛でしかない。
自分が幼児で、自分こそが母なる愛を欲しているので、子供に与えてあげることができないのです。
表面的な思考でしか判断できず、育てる能力がないのに、何人も子供を産んだりします。
快楽主義か、相手の要求を断れないか、どちらにしても、自分を大切にできない結果で母親になっています。
自分を大切にするという意味すら、わからないのです。
子供が欲しいと思ってもいないのに、できたから産む人もいれば、欲しいは欲しいでも、世間的に欲しいの人もかなり多いです。
厄介なことに、本当は子供が嫌いで、世間体でほしいだけなのに、本当に自分は子供が欲しいんだ、と思っている人もいます。
結婚したのに子供がいないなんて、、
二人目を産まないと私の人間性が、、、、
このように、オムツを履いた母は、自分の利益のことしか考えられないのです。
健康な男女が性行為をすれば、子供はできますから、そうして子供は産めますが、心理的には成人になっていないんです。
心理的にオムツを履いている人間は、自分こそオムツを変えてほしいと思っているんです。
それなのに、子供のオムツを変えてあげなくちゃならない
表面的な脳みそしか使っていないときは、ここに気づけることはありませんし、気づいても、認めることはプライドが許さない。
心理的に成長していないので、快くできないために、渋々やる、義務的にやる、という態度になるのです。
それがオムツを履いた母が子供に伝えていることであり、伝えられないのは要の部分です。
赤ちゃんだから伝わらないと思っているところが頭が使えていない証拠です。
全部お見通しです。
そのことを、言語化できなくても、母親が、どのような気持ちで自分にお乳をあげたりオムツを変えてくれたり、食事を与えてくれたり、髪をなでてくれたのかなんて、全部お見通しです。
オムツに汚物がついたら変えればいいんでしょう
1日の摂取カロリーを与えればいいんでしょう
風邪ひいたら医者に行けばいいんでしょう
周りが持ってる物と同じもの与えていればいいんでしょう
何かが欠けているのがわかりますよね。
そうして育てられた子供は、満たされるでしょうか
精神が成長するということは、精神的に満たされていくということなのです。
厄介なことに、このようなオムツを履いた母親というのは、子供が大きくなると今度は子供に甘え出します。
甘えるというのは、皆さんが想像するような甘えではない、、、
例えば、夫の愚痴を子供に言う、関係ない怒りをぶつける、などという、心理的な負担を子供に負わせるということです。
オムツを履いた母親というのは、そのように子供を利用していきます。
しまいに、子供の自立を妨げ、生涯自分の元に居させようとしたりします。
自分のことしか考えられないので、どうしてもそうなるのです。
ネグレクトや虐待など、表面的にわかりやすいならまだしも、両親が揃っていて、家もあり、なんでも与えられて育ったような子でも、オムツを履いた親の世話をしている子どもはいます。
心理的には、親の自分がおっぱいを吸い、オムツを代えてほしいにもかかわらず、現代社会では自分は子供を産んでいて、親になっているので、親としての行動が求められます。
自分が注目されたいのに、子供に注目して褒めるなんて、逆立ちしてもできないんです。
だから、子育てが苦痛でしょうがない。
良妻賢母を目指している人は、それよりさらに大変です。
他人の評価が自分の価値なため、良い母親でいたいがために、育児書を読み漁り、それを無理やりやろうとする。
だから、潰れます。
時に、子供と共倒れします。
理想がキャパを超えると、結果的に子供に負担がかかるということを考えられない。
自分の行動の結末が、子供の心理的な負担になるということが考えられない。
頭は、自分がどう思われるか、自分がどう評価されるか、それだけ。
それが、オムツを履いた母。
そうして、オムツを履いた母に育てられ、愛を与えらえず、親から甘えられ、愛されていないのに愛することを要求され、さらに、成績優秀、立派な人間でいることを求められたら、子供はどうなるでしょうか、、、
想像しただけで辛いですよね。
オムツを履いた母は、旦那の言いなりになっているような女性も多く、立場や力に弱いと、強い子にはあれこれ言わないけど、弱い子には攻撃するなど、兄妹間の差別や、人として最低なことも平気でやります。
自分のことにしか関心が無いからです。
それが、オムツを履いた母です。
自分がオムツを履いている場合は、自分の親も、もれなくオムツを履いています。
当たり前ですが、オムツを取るためには、意識で無理やり取るのは無理です。
トイレが自分でできないのに、無理にオムツを剥いでも、漏らしてしまうだけ。
精神のオムツもそれと同じ。
オムツを履いた母に育てられると、子供が心から満たされることがありません。
親が、自分を守ってくれる存在だとは思えない。
だから、常に不安です。
だから、世界が怖い。
だから、世界が敵になるのです。
だから、ますます防衛や武装が強くなるというわけです。
最初から、こんなにやさぐれた人間なんて、いません。
親だって私を愛さないのに、誰が私を愛すって言うのよ
という、悲痛な叫びです。
人は、愛されているんだ、という経験をしないと、愛を知ることができないんです。
愛されたと思えない、だから、自分を愛することが、とても難しくなるのです。
自分を愛せないという致命的な問題を抱えているのに、社会的な地位だけ真っ当に手に入れようとすると、子を産んで親になったとしても、子供を愛することが困難になり、それが子供に伝わるから、問題が起こってくるし、問題を片付けて行かない限りはそのまま受け継がれていきます。
例え、目に見えて大きな問題じゃなくても、オムツを履いた親に育てられた場合は、何かしらの問題は必ず潜んでいます。
それがいつ出るかは、人それぞれですが。
このようなことも、オムツ親の子育ての結果だと思います。
こちらも素晴らしい記事です。
書いた方も、批判が殺到すると思いきや、共感の声がよせられたとのことですが、それだけでも同じような人が少なくないということはわかりますね。
両親の中も悪く、虐待や躾の暴力、ドメスティックバイオレンスなどもあったようです。
自分の事嫌いだから暴力をふるうんだなと感じていたと、、、
靴下を裏返しにしていただけで、「私を家政婦だと思ってるんでしょう」などと、言われたと言っていますが、これは与える余裕がない親の典型です。
それをしても、何の得も無いので与えていることに腹が立つんですね。
何も考えず、家族のために身を削っても喜べるというのは、身が削れていたとしても、本当に幸せなことです。
愛する能力が発揮できているということは、既に救われているという事なのです。
愛されなくて、愛することがわからないからといって、愛せないわけではないのです。
人を愛する力に、邪魔なものがいろいろ積もっていて、麻痺しているだけです。
愛する力のない人などいません。
この感情というのは、人間にとって、とても辛いものなので、基本的には感情に蓋がしてあり、きっちりカギがかかっています。
しかし、100%なかったことにはできないんですね。
だから、隠している感情を他人に投影し、怒りが湧いたり、自責したり、人間関係、夫婦関係、子育てが上手くいかなかったり、生きるのが辛かったり、どれだけ隠しても、隠し切れないということです。
それを見ないふりしていても、問題は解決はしません。
愛する能力にまで蓋をしてしまいます。
オムツを履いた母のせいにしたい気持ちもわかりますが、それは自分のためにはならない。
私は誰も愛さない
これはむしろ、オムツ母の願い通りに生きることになります。
自分を救う術はひとつ、オムツを履いた親から自立することです。
物理的な依存から抜け出すことも必要ですが、オムツ母の呪縛から放たれることです。
幸せになる権利を思い出すことです。
子供を育てる力のなかった母親が、自分にしたことと、自分の価値をイコールにしないこと、植え付けられた歪んだ価値観を破壊し、自らの手で構築し直すことです。
今、命を与えた相手をどれだけ怨んでいても、憎しみを超えて、生の喜びを手に入れればいいのです。
生きる喜び、それが最初からある人は本当に幸せな人です。
その悦び与えることが、子供に摂っての最高の喜びということがわかりますよね。
最初から無ければダメなわけではなく、与えられなかった人も、自分で手に入れる覚悟をすれば、そのような道が拓いていくのです。
愛せる力というのは、お金では買えませんね。
自分が誰かを愛している、その力を自覚しているなら、そのことに心の底から感謝することですね。
家族のためにあれこれできることに感謝、ご飯を作れることに感謝、食べてくれる人がいるという奇跡に感謝ですね。
ではまた
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