人生難儀な人は、ゴミばっかり大切にしますね。
どうでもいいことをよくそこまで大切にできるなって思います
易しい人というのは、「本人は辛いんだよね」などと同情するでしょうが、私はしません。
私が、辛い人に共感しない理由は、ズルいからです。
私は人生が辛いから、人の物盗んだっていいでしょう
こういう考えの人が凄く多いからです。
本人は、まさかここまで甘えているとは考えていませんが、突き詰めていけば思っているんです。
自分の主観しかないので、自分とは違う考え方があるということが想像できないために、ずっと被害者を演じ続けてしまうんですね。
自分は辛い、大変だ、被害者だ、だから人生がうまくいかなくて仕方ない そう思って、自分の人生がうまくいかないのを、外的な要因のせいにしているので、自分の責任に転換できないんです。
これが致命的。
自分の責任として受け止めない限りは、自分の力は戻ってこないのです。
だから、他人の責任にしているということは、自分の力は失ったままでいいです!辛くていいです!ということにOKサインだしているということなんです。
正直なところ、この理論が分からない人に、何を言っても無駄なんですよね
それがわからないから、ずっと同じ場所をぐるぐるしてしまう。
本人は口では変わりたいとはいうのですが、本心ではそう思ってないんです。
気づいていないことが致命的なのですが、不幸でいたいんです。
他人のせいで自分が不幸でいると思い込むことによって、うまくいかない目の前の現実をなんとか受け入れているので、ありのままの現実を受け入れることは無理なんですよ。
今の若者は、反出生主義というのが増えてきて、生きていてこんなに不幸な人生なんだから、産まれない方が幸せだ無責任に子供を産むなという思想の若者が増えているんですね
私が相談を受ける若者は、基本的にみんなこのような思想です。
この考え方こそがまさに、自分の人生のうまくいかない原因を、すべて他人になすりつけた究極的なものですね。
どうせ生まれたって幸せになれないんだから、と未来の自分の人生だけでなく、他人の未来までも勝手に決めつけてドヤ顔で物を申すわけです。
どれだけ自分しかないのだろう・・・と、普通の方ならわかると思いますが、反出生主義の人はそうは思わない
自分が辛い人生を送るんだから、これから生まれる奴らもみんな辛くなるんだ、だから子供を産んでくれるな! 一瞬の快楽で子供を産むなんてクソ親が!!!という思想です。
勘違いしてはならないのが、この思想は、私は生みませんという柔らかなもの(チャイルドフリー)ではなく、全ての女性は子供を産むべきではない(アンチナタリズム)という思想なのです。
不妊治療をしているお母さんが聞いたら、どう思うでしょうかね
障害児を産んだお母さんは、クソミソに言われるようですが、不妊治療の方もボロクソに言われるでしょうね。
インドでは、反出生主義の方が、生まれてきたことが苦痛だから、産んだ親を訴えたという裁判があったそうです。
「生殖は、地上で最もナルシスト的な行為です。子供を作った人たちに、なぜ子供を作ったかのを聞くと、必ず最初に答えるのが『欲しかったから』という理由です。子供を生み、苦しみを味わわせるのは間違っています」
この主張が、反出生主義なのですが、そもそも論で根底がおかしいと私は思います。
苦しみを味わわせるって・・・
まず、自分の人生が苦痛だからと言って、子供を産んだ人や、生まれた子供達やこれから生まれる子どもの全生命を否定することを、正しいと感じられる思考自体が私は相当に疑問です。
その思想をもつことを私は否定しませんし、何を思っても自由だとは思いますが、この思想は、女性全てに産むなと意見している思想で、相手の自由を奪っていることであり、否定している思想でもあるわけです。
その時点でおかしくないですか?
他人にそこまでいうなんて、凄い権利あるんだね?(まさに自分スゴイです)
彼らは、「私たちはただ、苦しみと不必要に子供を生み出すことを減らしたいだけ」 と立派なことを言うのですが、理論的におかしいことだらけで、そうとは思えないんです。
世の中には、子供が欲しい女性もいるし、子供を産むことが喜びの人もいます。
そういう女性を頭から否定することですよね。
命が誕生しないことで、新しい生命が苦しまないなら、産みたいと思う女性は苦しんでいいのか?
完全におかしいですよね。
子供を守るためだといいながら、世間、しかも、子供を産む女性という、壮大なスケールの人間達を否定しているだけのようにしか聞こえない。
それだけでなく、生殖をする人間全体を全否定しているわけです。
要するに、ほぼ人類全てを否定しているわけです。
私は、なんだかんだ大きなこと言うけど、単純にそれがしたいんだろうなと思うんですよね。
要するに、否定による仕返しです。
子供の為とかいってますけど、そんなものは免罪符で、ただ世の中に怒りをぶつけたいだけだと思います。
しかも、その対象が、大きければ大きいほどいいと思っているはずです。
素直に怒りをぶつけるよりも、ひねくった理論をぶつけて相手を困らせる(これが目的)ので厄介だなと思うわけです。
「苦しみや悲しみばかりの世の中に、子供を産むことは倫理的に間違っている」
言いたいことは解りますが、そういう人ばかりではない。
そして、苦しみや悲しみばかりだと思うのは、あくまでも自分の価値観だということをすっぽり忘れている
苦しみや悲しみばかりだと思っていない人も沢山いるんですけど?
生まれてきてよかったと思う人間も、世の中には沢山いるんですけど?
そういう人たちをいないことにして、この世は苦しみだけである、したがって生まれない方がよい、なんて理論がどうして成立するといえるんでしょうか?
教えてほしい
生まれなければ苦しみもないなんて、超ゼロヒャクの考え方ですよね。
生きなければ喰わなくてもいい、喰わなければ働かなくていい、だから生まれない方がいい、全てがこんな感じでしょうね・・・・
部屋は汚れるから、掃除なんてしなくていい、とそっくりで、一見ごもっともなんだけど、超短絡的で、一番大事なものがすっぽり抜けた理論なんだよね
まさに白黒さんが考える方程式の考え方です
平和に暮らす人というのは、そういう考え方をしないということをしらないんでしょうね。
人生は、幸せか不幸かだけではないんですけど?
なんでも合理的に考えると白か黒かになりますからね。
従って、ずーっとそうやって、合理性で考えて生きて生きたという証拠です。
だから、なぜ汚れるのに掃除しなければならないんだという感じで、いろんなことに対しての怒りも人一倍なのです。
そりゃ辛いわよね
そういう考えの人ばかりじゃないってことを知ることが大切です。
なぜそうなるのかというと、やはり環境は大きいですね。
〇〇のために〇〇すべき
これがまさに合理性で、損得の世界ですよね
将来の為に勉強するべき
この方程式は学校教育の基本ですから、学校でこれを押し付けられた上に、家庭でもこの方程式のやり方が正しいとガチガチに育て上げられると、子供が頭でっかちのゴリゴリの合理性人間になるのは当たり前でしょう。
こうなると、絶対損したくないという考え方の人間になります。
得にならないことはやりたくない
という考えにもなります。
何か大切なものが欠落した考えだというのがおわかりでしょう。
こういう考え方で、人生楽しいわけがない
その方程式だと、成功しないならやりたくないになってしまうからですよ。
人生は、楽しいだけじゃないし、楽しくないからダメなわけでもないし、幸せにいきないとならないわけでもないし、充実してないといけないわけでもないし、成功しなきゃダメなわけでもないし、失敗してもいいし、できないことがあってもいいし、人にバカにされたっていいんですよ。
要するに、なんだっていいんです。
人生なんて好い加減に生きればいいんだよ。
将来的にちゃんとした職業について、人から凄いと言われる人間にならなければならないなんて理論、バカじゃないの?って感じです。
誰からも好かれなければならないなんて、そんなクソみたいな理論どっからもってきたんだよ(笑)
それをアホ草っと思えないで、真面目に信じてるから苦しんでいるんだって気づいた方がいい。
そして、それを植え付けたのは確かに周りだったかもしれないけど、それを理解できる年齢になってまで、延々と周囲のせいにしているようでは、その先はありません
気づいたほうがどうにかするしかないのが宇宙の法則だから。
ましてや、働ける歳の人間が、寝る部屋も、電気もガスも、食事も、スマホもネット環境も与えられ、何一つ自分で整えることができないのに、それを用意してくれている相手に対して文句を言うというのは、それだけでもはや理論崩壊です。
親は、少なくともそれを用意できる力があるけど、脛をかじっているいるなら、文句垂れる自分は、自分が憎んでいる親以下、ということになりますので、何を言っても理論崩壊します。
そういう子供を甘やかしている親も問題なので、勝手にすればいいとは思いますけど。
だいたい、そういう親は超過保護に育てていますから、ブツブツ文句言われながらも、その子がぬくぬくと生きられる環境を整えているはずです。
これでは子供は永遠に自立できないのは当たり前。
私が親だったら、まずスマホと自分の部屋を取り上げます。
テレビとか一切見せないし、食事も一切作らない。
親の金で買った荷物は全て処分させてもらいます。
まず、家の中で居場所を与えないです。
家の中で居心地をよくさせていることは相当に問題です。
私はこういうところは相当に厳しいと思います。
で、夏頃に車でキャンプ場に連れて行って、道具と一緒にひとり置いてきます。
私は本当にやります
実際、私は自分でこれをやったんですよね。
森ではなく海でしたが、友達に頼んで、海にひとり置き去りにしてもらったんです。
目の前にあるのはテントと寝袋だけ。
あれは本当に恐ろしかった思い出です。
私は時々こういう風に自分を追い込んでいました。
自分でこういう決断ができたから、今ここにいると言えますね。
親が、ここぞというときに、こういう決断ができるかできないかで、子供が自立に失敗した後でも、自立できるかできないか決まると思います。
子育てには、海のように包み込む母親の母性も必要なのですが、厳しい一貫性もないとダメなのです。
あれもこれもと与え続けて、子供のいうことを聞いてばかりいるようではダメですね。
合理性で物を考え、損得で生きて、不満と怒りと憎しみにまみれ、家ではわがまま放題しているのに、外では影を潜めて、他人に少し小言を言われただけでへこんでしまうような、非常に生きにくい子供ができてしまいます。
親が子供にしなければならないことは、子供を自立させることです。
あれやこれやと過度に世話することで、子供の自立を削いでしまっては、どうしようもないんです。
子供に文句を言われたら、きちんと言い返せないとなりません。
ああいえばこういうという愚痴の言い合いではなく、一貫性と厳しさを持って返せないとなりません。
生まれたことが辛い、産んだ親が憎いと言われても、「だけど私は幸せだよ。」と子供に毅然と言い返せる親であれば、問題ないのです。
そこまで言える親なら、そうはならないですけどね。
「ごめんね、私が悪かった・・」なんて適当に返してしまうようでは、子供が天狗になってどんどん自分のおかしな理論を肉付けしていくのが関の山です。
子供は辛いから、私が謝るしかないなんて、まさにバカ親です。
子供自身も、そんなバカな親を憎んでいても、ますます自分が不幸になるだけ。
バカな親の相手なんてしてないで、さっさと家を出てすきなことをすればいいんです。
自由なんだから。
だいたい、本当に損得が計算できるなら、バカ親から認められたところで自分に何の得があるんだと思えるはずなんです。
損得で生きているつもりが、大事なところがすっぽり抜けているので、まともな計算ができていないんですよ。
子供が自分で出て行けないなら、親が追い出すしかないんです。
それを可哀想と思う価値観しか持てないのなら、もはや子供は救えません。
生まれたことを否定する反出生主義は、ショーペンハウアーが支持しているそうで、適当な理論ではないといいます。
賛同する人も、厭世的な哲学者にでもなったつもりで、声高に叫んでいるんでしょうが、ショーペンハウアーのいいたいことを理解しているとも思えないのが現実。
ショーペンハウアーは、人は幸福になるために存在しているわけではないと説いています。
それについては、私も同感です
別に、幸福になることだけが人生ではないし、楽しいことがあることだけが良い人生でもない。
人生は楽しくないとダメだと思っている時点で、反出生主義の方は誤認していますよね。
人生は苦悩の海のようなものであり、苦悩の中で生きるしかないのだから、それを踏まえたうえで穏やかに過ごせる技術を身につけるべきだと説いています。
これは、仏陀にも通じるものがあるなと思いましたが、実際に仏陀を見習っていたようです。
仏陀は、この世は全てが空であると説いていますが、虚しいから生きていても意味がないなんて言っていません
それは国語のできない人の解釈ね
仏陀は、この世は苦悩の連続であるが、それを理解したうえで喜びに変えていくことが人生であると言っています。
ショーペンハウアーはこうも言っています。
愚者は自分と他人と比較するから、何かを失った時に不幸になる。
賢者は自分の内なる精神世界を目的とし、自分自身が本来備えているものを育むので、不幸になることなどない。
これは、前回書いた、金をもって生まれるか、銀を持って生まれるか、はたまた石や木なのかというのと同じことです。
あいつはお金をもっている!と他人と比較しても、生きやすくはならないんです。
自分が持って生まれたものを受け入れ、それを育む、だから不幸にはならないんです。
彼は、「幸福や快楽は主観的で移ろいやすいから幻想だが、苦痛や悩みは幻想ではなく実在し、客観的かつ普遍的であるものだ」 とも説いています。
これについては、幸福だけが幻想で、苦痛は現実だというのは都合の良い解釈であり、幸福が幻想なら、苦痛もまた幻想である、というのが私の意見ですね。
仏陀は、何不自由ない人生の中、持っているものをすべて捨てて、何年も修業して、悟りを得られず、さらに過酷な修業をして身体も心もボロボロになり、菩提樹の下で、スジャータ姫に乳粥を貰い、その後に悟りを得たわけです。
乳粥の一杯など、全てを捨てる前の仏陀ならいくらでも食べられたことでしょう。
しかし、何もかも満たされた状態だからこそわからなかったのです。
自らわざわざ苦しんだ、死ぬ思いをしたから、一杯の暖かい乳粥で悟りを得たのだと思います。
その苦悩や、悟りの喜び全ても、幻想と言えば幻想なのです。
私は、命の重さを説こうなんてさらさら思いませんし、生まれた人が何を選んでも自由だと思いますが、生まれたから幸せにならなければならないと執着して苦しむよりも、生まれたついでに生きているんだと思うくらいが、良い塩梅であり、平和だと思います。
美味しいものを食べることと、美味しくものを食べることは似ているようで全く違う。
この違いさえわかれば、なんとかやっていけるはずなのです。
美味しいものを食べることが人生だと思うと、美味しいものがなければ人生は辛いものです。
でも、美味しくものを食べることを目指すなら、いくらでも変えていける。
要するに、どのような考え方をするか、それだけのことです。
ショーペンハウアーも、「幸福は外的な条件によって得られるものではなく、自分の気の持ち方一つで、どうにでもなるのだ。」と説いているのです。
仏陀のように身も心もボロボロになりながら悟りを得なくても、考えかたさえ歪んでいなければ、人は簡単に平和になれると思います。
ではまた