youtubeで有名なあの御方、炎上してしまったようです。
さすがにあの発言はマズイと思いましたが、弟さんなどの説得があったんでしょうね。
すぐにきちんと謝罪して納めたようですね。
FBで話題になっていたので知りました。
はっきり言って、どうでもいい話題なのですが、、
私が思うことはひとつ。
頑張りすぎていると、頑張っていない他人を批判したくなるということ。
昨日の記事にも繋がりますよね。
休めない人って言うのは、やはりかなり危険だと思います。
好きなことをしているように見えても、それははたから見てそう見えるだけで、他人が見ていないところで必死にやっているのです。
その根底は何でしょう?
大事なのはそこです。
あなたが頑張る、そのモチベーションは何なのでしょう?
そこが本当に重要なのですよ。
好きだからただやり続けただけ と 誰かの賞賛を得たいがために頑張るのとでは、大違いです。
表面上しか見ない他人には、本人の深層心理はわからないのです。
これが、後者の場合、成功したとしても結局最後はいろんな問題を抱えることになります。
それは、ビジネスに限らず、家事や育児、人付き合いでも、なんでも同じなんです。
ちゃんとやってないとダメだから頑張るなら、それはありのままを認められていない証拠です。
必死にムチを叩きながら、なんとかやれていても、他人からの賞賛を得たり、できた自分を認めるための頑張りなので、評価されなければ腹が立つし、思うようにやれない、本当はやりたくない、できないまんまの自分を受け入れることはできていません。
素の自分をみたくないから、頑張り続けるのです。
だから、他人の批判が生まれてくる。
ありのままの自分を見たくない人というのは、自分の理想の、(本当はできる私・自分は凄いはず)幻想の世界に生きていて、そのまんまの自分(できない自分)を受け入れることがとても困難であり、何を言われても簡単に受け入れることができません。
理想の自分(凄い私)でないと、生きていられないからです。
でも、理想と現実は違うわけです。
だから、24時間辛い。
心が休まる暇がないわけです。
でも、出来ない自分を受け入れたら、生きていけないと思い込んでいるので、どれだけできてない事実が目の前に並べられていても、受け入れることはできません。
でも、受け入れないからこそ、辛さからは卒業できないのです。
幻想に生きている人は、それを理解することはできません。
辛い私=できない私 =できるようになれば幸せになれる!
頑張れば幸せになれるという幻想そのものです。
常に、夢みる夢子の脳みそでしか考えることができません。
どんな格言を聞いても、意味がないです。
こういう人が辛さから卒業できるのは、残念ながら、徹底的に悪くなったときだけです。
他人が何を言っても、聞き入れることはできません。
なので、受け入れることがあるとすれば、病室のベットの上ということになってしまうわけです。
自分の等身大の現実を見ず、理想の自分を見て生きるということは自分を苦しめることです。
自分を過剰に評価すること、それが、ナルシストです。
ナルシストは自分が好きなのではないです。
根底に自分を愛せないがあるのです。
ナルシシズムとは、歪んだ自己愛のことです。
自分を愛するとは、正反対のことです。
自分を本当の意味で愛し、満たせた人というのは、自分のことには興味がなくなります。
だから、損得を考えずに、平然と自分の持っているものを他人に与えられるのです。
相手が好きとか嫌いとか関係なくです。
自分を徹底的に満たした人は、相手の負の要素さえも、簡単に受け止めることができるのです。
それが、赦しです。
自己否定の根底があると、とめどない欲望と恐れが生じます。
それが、自分を必死に鞭打つ要素となります。
エゴで生きる人が欲しがるのは、快楽、承認、尊敬、注目です。
その対極にあるのが、愛と赦しです。
愛と赦しで生きる人には、快楽も承認も尊敬も注目も必要ありません。
親にありのままを認めてもらえなかった子供は、身体は成長しても、精神はいつまでも幼児です。
このようなニヒリスティックな感情は、負のエネルギーとなり、時に芸術を生むわけですが、その根底には深い自己否定がありますので、アーティストや作家に自死する人が多いのは頷けますよね。
そこから少し成長すると、自己否定が変化していきます。
自分はダメから、自分はOKにようやくなるのですが、、
自分だけがOKになることが多いのです。
ここの段階は、分離が大きい段階です。
だからこそ、対立を生む。
ここのレベルにいる人達が、自然派にハマる人たちです。
自己承認の登竜門なのです。
キラキラな自分を見せたがる人も、ここの段階です。
原発反対、原発賛成、ワクチン反対、ワクチン賛成、アンチ精神というのは、この精神段階でなければできません。
それがわかれば、まともな政治家は生まれないということが理解できると思います。
精神が成熟した人というのは、対立など好まないからです。
そこに必死になれるというのは、悲しいかな、それなりの何かを抱えているからこそです。
この段階での【私の価値】はフェイクであり、自分は凄いに酔っているだけなので、そのジャンルでエキスパートになろうとし、知識を詰め込み腹の底で他人を見下し始めます。
自然派になった人が、ジャンクフードを食べている一般人をディスルのは、自己否定の表れなのです。
美味しいから食べるのではなくて、手作りご飯、安全なごはんを食べている自分だから(ちゃんとやっているから)価値がある、という図式になっているので、それを辞めることができないのです。
自分はOKと見せかけて、、、その根底は自己否定のまんまです。
自然派にこだわり、添加物などを批判する人がエネルギッシュなのは、”頑張らないとダメな私”が根底にあるからです。
SNSなどで一見エネルギッシュに見えても、夫婦関係も私生活も荒んで、超疲れていたりするのです。
だから、あんなに気を付けていた人がまさか病気に・・となるわけです。
自然派に一生懸命なお母さん、表面的には家庭的な賢母に見えても、実は恐れの根底から来ていることが多いのです。
バランスよくできている人は、出来ない他人も、出来ない自分も責めません。
というか、何とも思わない。
だから、楽なわけです。
無添加が良いのは当たり前だけど、出来ない人だって沢山いるわけだし。
全体を考えたら、何がベストかなんて、簡単には言えないわけです。
だから精神的に成長している人は、スルースキルが凄いんですよ。
自分を見つめ続けることを止めず、そこを突破できれば、次の段階になります。
ここまでくると、この通り、全てOKという境地に達します。
なので、他人に言うことなど無くなります。
この達観した境地で政治家などできるわけがありません。
どうでもいいという自棄とは違います。
アンチに見えたとしても、全ての人は、自分なりの善意から発信しているということがわかります。
自分と同じように。
なので、自分とは違う相手の意見も尊重できるようになるのです。
だからこそ、相手のアンチの意見にも気持ちが引っかからなくなるのです。
誰かの意見に引っかかるということは、自分の中に共鳴するそれがあるということです。
素敵だな、と思う事は、自分の中に【素敵】と共鳴する要素があること。
同じように、【嫌いだ】【ムカつく】【怖い】その共鳴も、自分の中にその要素があるということ。
【大嫌いなのに気になる人】【ムカつくけど考えてしまう人】というのは、【自分の嫌な部分】をその相手に投影して【自分を憎んでいる】ということで、相手の中に見てしまう【嫌な自分】をそのまんま認めて受け入れない限り、本当は関係ない他人を、嫌悪し憎み続けることになるのです。
【そのまんまの自分】を認めないということは、無駄にエネルギーを垂れ流し、疲れ続ける人生になるということであり、それは実際の身体のエネルギー代謝にも関係してきます。
本当に大切なことは何か?
立ち止まり、考えてみましょう。