非二元、ノンディユアリティって、悟り(エンライトメント)のことを指すらしいですね。
悟りっていうイメージが、あまりに重たい ということで、ノンデュアリティという言い方になったようです。
かなり前から流行っている言葉みたいなので、お勉強してきたかたなら、イマサラ感満載ですが、動画やブログなどで発信しているスピーカー(メッセンジャー)さんの話で、真に理解する人っているのだろうか・・・・と疑問に思いました。
動画は、凄くわかりやすいものと、バッチリメイク、肩出しで色気ぷんぷんさせたお姉ちゃんがお花畑のように話して、全く伝わらない(たぶん感性のままなんだと思うが)ものと、屁理屈ばっかりこねてる男性の方、中途半端に理解して先生ゴッコしている人、など、いろいろいいるようですが、まともに説明できているものはほとんどない気がします。
基本的に、言葉で説明できるものではない ので、セミナーをいくら受けたところで、合理的に説明されるか同じことを何度も言われて終わるんだろうな、という感じ。
バイブレーションが無いと、伝わらないと思います。
伝えようとしているのものが、物体のことではないので、そこにはどうしても熱が居るんです。
敏感な人なら、すこしの言葉がトリガーになり、理解できるかもしれませんが、人の心というのは千差万別で在り、コンクリートのように固まってしまっている人も居るのです。
そういう人に必要なのが、バイブレーションでしょう。
文章は、文字ではなく、文字の裏にある、バイブレーションです。
それを感じ取れる人なら、読めていますが、バイブレーションを感じていなければ、読んでるようで記号を眺めているだけです。
だから、読んでも理解できないのです。
だから、セッションを受けたり、セミナーを受けたりするわけです。
そこでまた、伝わるのが理屈だけであれば、大切なものを見失いますね。
だから、感度が鈍ければ鈍い人ほど、大勢の中のひとりとして学ぶより、一対一じゃないとダメなのです。
カチコチになっている人に、いくら理論を解いても無理なのです。
無理なの。
自分が感じるもの、感性を殺してきているから。
感じ取るには、感性が必要なんです。
理屈じゃない。
理屈でも「悟り」は理解できますが、理屈だけで理解した場合には、必ず虚無が残るので、”光に包まれるような”という体験が伴いません。
なので、わかる人には即、バレます。
【アタマ悟り状態】
こういう人に引っかかる人は、相手のバイブレーションに近いんだと思います。
屁理屈ばかりこねて観衆を煙に巻いて楽しんで、隙あらば金儲けをしようとしている感が強い人は、悟りとか言いながら結局物質が欲しいと思ってるよね?という人や、自分が凄くなったように感じたいから悟りを拓きたい、とか、悟ったら寝ててもお金が入るんでしょう?とか、そういう動機を持つ人が集まりますよね。
類は友を呼ぶのです。
私は、動画を見て、この人のバイブレーションを浴びたいと思った人は居ませんでした。
ちゃんと説明できているという動画を見て、【ただ在る】 のことを言っているだと理解しましたが、それでも、私からしたらその理論ちょっとおかしいよね、、という・・・・。
うまく説明できているな~という人の説明の中で、「ノンデュアリティは般若心経です」 と言っていたのですが、イコールではないとしても、般若心経って、大乗仏教の経典だよね?
【小乗仏教(上座部仏教)】って、厳しい修行をしたエリートだけが悟れますよ~って教えで、【大乗仏教】はそれに対抗して、自分が幸せになれば他人も幸せになれるよ~って感じです。
なんか、引き寄せの法則に似てますね。
小乗という名は大乗仏教が揶揄を込めて名付けた蔑称と言われています。
【密教】は、【大乗仏教】の中で、さらに別な流れに乗った宗派。
インドから渡った密教ですが、インドでは消滅しています。
密教の意味は、【生まれたまんまそのまんまで煩悩を越え悟り拓く】 こと。
真言宗は、空海が体系化した密教であり、真言密教のことです。
立川にも、大きな総本部がある宗教団体がありますね。
その大元が。真言宗です。
悟りを拓くための修業をしている最中、霊的なものが開花することがあって、お釈迦様は、それは悟りの妨げになるので、【無視しろ】というのに対し、真言宗の流れではその霊的なものを【増幅させる】傾向にあるらしく、そういう部分がなんだか怪しさがあるところ。
チベット密教ではこんな絵(曼荼羅なの?)もあり、性的エネルギーが悟りの道へ導くという教えもある。
釈迦や如来などが人々を救うために説く教えを【顕教】といいます。
悟りを経るには輪廻転生を経て長い時間をかけないとダメだという厳しい宗派。
それに対し【密教】は、生まれたこの肉体のまま、学びと実践があれば、【だれでも悟りを拓け】、誰でも成仏できるという、大日如来の教え。
といっても、結局、大日如来も元をたどればお釈迦様なのです。
お釈迦様というと、ガウタマ・シッダールタという個性が強いので、さらに一段階上げて、大日如来ということにしたようです。
まったく、ややこしくするよね。
それってまさに、「俺が!俺こそが!俺の教えがああああ!!!!」っていう傲慢さがあってこそ、できる芸当ではないでしょうか?
仏教は、「欲望こそが生きる苦しみだ」と言っているのではなかったのか?
そもそも、どの口が悟りを説いてるんですか?って話になりませんか?
密教の中でも、エリート【最澄】と 無名だった【空海】 は経典を貸すとか貸さないとかで、大きな喧嘩をしています。
妙法蓮華経(法華経)の教義(人は誰でも平等に成仏できる)を中心とした【天台宗】を広める最澄。
”蓮の花は泥水から美しい花を咲かせる” というあれですね。
【天台宗】 の 【草木国土悉皆成仏】とは、草や木にも仏としての本質があるとする教えで、そこは私も賛成ですが、【いつの時代もどこでもどんな生物にも観音菩薩の名を唱えれば救われる】 というのは、非常に微妙・・・。
それを唱えても、腹は減るでしょう。
なんかこの辺が、”私はいない” という 【一言で全て救われようとしている感】が似てますね。
そういうことを考えていくと、こういうのって本当に【欲望の塊】だなって思うんですよね。
悟りを拓きたいということそのものが、ものすごい欲望ですからね。
【いつの時代もどこでもどんな生物にも観音菩薩の名を唱えれば救われる】 と説いた 最澄は、言い争いをし続けて生涯の幕を閉じたそうですよ。
密教の大元、【大乗仏教】の登場は、厳しい修行をしてきた【小乗仏教】を信仰する、保守の反感を買い、一時的に派閥が起きたようですが、【誰にでもできる可能性がある、この教えはいろんな人を救う】、ということで広まったようです。
色即是空、諸行無常と説きながら、派閥を起こし、分離させる・・・
なんだかんだ言っても、分離って起こるのですよ。
【無いとはいっても、有る】んです。
【在る】ではなく、【有る】ですね。
ざっくり辿っても、最初の【原始仏教】が厳しすぎるのと、修業した特別な人しか救われないなんて、違うんじゃない?というアンチによって変化してますよね。
やはり、いつの時代もアンチは大切です。
分離が大切なこともある。
大元の、原始仏教では、【生きることは苦しみである】 と 【決定している】 んですね。
【生=苦】
そこからスタートしている。
ガウタマシッダールタが悟りを拓いたのは、紀元前5世紀です。
今、令和です。
そもそも論で、議論の余地が大ありだけど、決定しているんだから、「ああ そうですか」 「あなたはそうなんですね」 としか言いようがない。
そうなると、そこからもうそれは、発展しない。
だからこそ、保守と相容れず、別離して新しい宗派ができていったんだろうけどね。
【生いきることは苦である】 から続いて、【欲望を持つから苦しい、煩悩から自由になれ】 と説いているんですけど、そこに反論したのが 【大乗仏教】らしいです。
「いや、すこしは欲望も肯定しようよ~!」 とね。
人間らしい。
さらに欲望を肯定していったのが、密教みたいです。
こういう考えは、原始仏教からの 【分離】 から 【生まれてます】ね。
【分離】とは、【生まれる】と言う事でもあるんです。
人間でも、アメーバでも、子孫を残すのは【分離】ですよ。
分離はない、というのが、ノンデュアリティの謳い文句ですが、元は原始仏教から【分離して生まれた】 大乗仏教からなので、分離を肯定しないとおかしい気もしますが。
多くの宗教では、神はいる、天国や地獄があるとか、死んだら死後の世界にいくとか、【絶対的な】決定事項がありますよね。
大元から分離して独立したのに、分離を許さないと言う、ものすごい矛盾を抱えます。
「神は居ないよ」といった瞬間から もう 【お互い議論する余地がない】よね。
そういう意味で、私は宗教って思考を奪うよなあ、、と思うのです。
人生に身をゆだねる、「なるようになるよ~」 というのと、誰かの考えを取り入れて信仰とし、それ以上考えないとうのは、全然違う。
【我欲で生きるのではなく、自分の魂にお任せする】という状態になれるように【学ぶ】というならいいでしょうが、「悟りを得たい!悟りを得たい!悟りを得るために学ぶのだ!!」 というのは、まさにエゴど真ん中の状態です。
悟りを得たい人って本当に多いみたいですね。
でもね、【それこそがフェイク】なのですよ。
本当に悟りを得たい思う人は、得られると思います。
100%得たいだけならね。
でも、多くの人は、 悟りを得たいのではないのです。
【悟りという、なんだか凄そうなものを手に入れて、一目置かれる凄い自分になりたい】
多くの仏教のお弟子さんたちは、そうだったのではないかと思います。
これだと、当たり前ですが、悟りというものを【自分を埋める道具】にしようとしているので、悟りには近づけないばかりか、どれだけ修業をしても手に入りませんし、満たされないまま走り続けますから、ますます苦しみますよね。
だから時間がかかるんですね。
お釈迦様自身も、そうだったんじゃないかと思います。
お釈迦さまである、ガウタマ・シッダールタは妻と子供を捨てて出家しますよね。
最後は二人の元に戻り、二人を悟りに導きましたが、そこまでする必要あります?
というか、そこまでして【悟りが欲しい】と思う強欲さ、ちゃんと観よう。
【何かが足りない】という不足感は、そこまで人を動かすのです。
金持ちの家に生まれ、何不住ない暮らしをしていても、まだ欲する自分。
そりゃ、苦しいでしょう。
何年もかけて、考える気力もなくし、力もなくし、【一杯の乳粥】で目覚めたわけです。
やっぱり、遠回りですね。
もともと恵まれていたからこそ、説得力があり、わかりやすかったのでしょう。
もともと粥くらいしか食べられない人では、悟れなかったかもしれません。
お釈迦様自身は、悟りについて何も残してないんですよね。
お釈迦様の言葉として「残す」という行為をしたのは、弟子たちです。
本当に悟った人なら、【悟りを教えることに意味など無い】ということに気づくはずですからね。
悟りを得たって、腹は減るんですよ。
さて、本当に良いタイミングで、先ほどメッセージをいただきましたので、載せますね。
本当に、エネルギーが溢れていますね。
ここでいう 【私の存在】 を、ノンデュアリティでは完全否定します。
確かに、まだまだ先はあるのです。
というよりも、終わりはない。
私は、誰もがそこに向う必要はないと思います。
全ては、バランスです。