映画ってホントにいいもんですね。
この前のブログで『石坂浩二の金田一耕助シリーズ』が面白いというお話をしました。
何を今更という感じではありますが…何せ50年前に流行った時、私はまだ生まれていないので。
でも今の時代に見ても、市川崑監督の映像美術には驚かされます。
早すぎるキャメラワークに黒澤明もびっくりな役者のアップ、ザラっザラのモノクロで映される回想、スローモーション、コマ撮り。はっきりいって、こんなに映画の映像美術に感嘆したことはありません。
話や演出に気を取られ、技術的なことにはめっぽう弱い私でも、市川監督のアニメーション出身の技術を持ってして生まれたビジュアルには興味が俄然湧きました。こんなカッコいい映像を撮りたいもんデス![]()
それで、じゃあもちろん『犬神家の一族』で市川崑に感動したら、全作、残り5作を見ないわけにはいきません。個人的に全て見比べてみて、『犬神家』は原点にして至高だと感じました。
やはりシリーズものというのは進めば進むほどマンネリ化が目立つもので…(石坂さんも水戸黄門のマンネリ具合を気にしてか、史実を重視してか、髭を無くして大目玉食らったそうですが)
映像が美しいことに変わりはないのです、市川崑の美的センスは決して失われてはいないのです。
ただ、最初が一番良いとは、よく言いますよね。
そういうことなのです![]()
ここで、6作目に当たる2006年版『犬神家の一族』の話をしたいと思います。
同じ監督、同じ脚本、同じ役者(一部)で揃った完全なるセルフリメイクの本作ですが、同じ人間が撮ったにしてはかなりグレードダウンしたと思います。
私は市川崑監督も石坂浩二氏も大好きですが、自分の感覚には忠実でいたいと思っています。
2000年代のドラマ、今でいえばBSでお昼時に再放送されているドラマのような映像・演出にはかなり落胆しました。1970年代には出せていた昭和の湿っぽさやゆとりのある間(pose)がなくなり、早さやエンタメ性の色が濃くなりました。これは76年版の予告編と比べても明らかな差異です。
(映画本編より、予告編の差異を比べる方がわかりやすいと思います)
ただこれは、新しいものならなんでも積極的に取り入れる市川監督だからこそ、そうなったと考えられるのです。
市川監督は2000年代の演出を取り入れた、ハングリー精神ゆえのその行動が76年版の余韻を上書きしたのです。そういう意味では、セルフリメイクとしては成功しているともいえます。
石坂浩二氏のエッセイ『金田一です。』がこの頃出ました。今は絶版らしく、メルカリで倍の値段で手に入れましたが、その価値はありました。
黄色の表紙にヘタウマな金田一のイラストが添えてあります。石坂氏が書いたものかは謎ですが、彼の画風のような気もしなくもないです。めちゃくちゃあえて雑に描いたら、あんな感じになりそうです。
ハンサムでどこかキョトンとしたとぼけた表情が特徴的な石坂さんですが、そのぼんやり顔(褒めてます)とは裏腹に、内には確かな深い教養と思想が見えます。これが、文章が上手い俳優さんなのです。
俳優というのは、表現者ですから、文章も上手なのでしょうか。うちなる感情や思考を表現する才がありますからね。
まだ途中までしか読んでませんが、ギリシャ劇のコロスの話や、役者とはどうすべきかという彼なりの考えは読んでいてとても楽しいです。自分も芝居をやる人間だからこそ、彼の役者論は割と自分に近いなと思ったりなんなりします。
役作りというのは、最初のうちは考えて考えて考えて、それでヨシと思って初めて考えることをやめます。そこからは考えるより先に、人間の本能的なものから演技が作られていくような気がします。
今、稽古をしている芝居の中で、ある友人を深く敬愛するキャラクターを演じています。しかし、そこには底抜けの明るさや無責任、相手への単純な友情を超えた感情を感じています。それは狂気です。人はそこまで深く人を尊敬できますでしょうか。それは、崇拝と何が違うのでしょうか。相手は素晴らしい人間に違いないと疑わず、相手が落ち込めば半分怒りを伴った激励を送るのです。
彼女は常軌を逸した友情と信仰心を抱いているのではないかと、本番直前になって私は気づいたのです。
明るいだけではないのです。人間というのは、一つの感情にいくつもの多面的なものを含んでいます。
それが少しでも今から表現できればと思います。