開館30周年を迎える近つ飛鳥博物館を初訪問しました。変換しにくい名前指差しですが、古事記に因む名前らしい。

 

 
巨大な29haの史跡公園近つ風土記の丘の中にあります(ユニバーサルスタジオは54ha)。博物館に行く道すがら森林浴ニコニコ公園の中には102基の古墳が点在しますびっくりが今回は横目に見るだけ。
 
 

博物館の建物は安藤忠雄氏がデザインしたコンクリート打ちっぱなしの建物で、前方後円墳を意識したそうです。

 

遠足のお弁当用広場やニコニコ

 

本日のお目当ては6月16日まで開催中の「四天王寺と古代王権」の講演会。

 

展示

四天王寺は聖徳太子が存命中に建立したとされる寺院で今も法灯を伝えます。同じく太子が建立したとされる法隆寺若草伽藍(日本書記によると670年に焼失)と同じ型を使った瓦が用いられています。

 

 

 

発掘調査に伴って最近また瓦が出たみたいやびっくり

 

若草伽藍(現在、非公開)は現在の法隆寺よりも古い建築物(斑鳩寺)で塔と金堂が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置(日本に公式に仏教を伝えた百済のスタイル)であったことが発掘調査からわかっています。

 

四天王寺を西側から

 

上からグーグルマップで(↑が北です)

 

太子の墓

常設展示に太子が葬られた叡福寺にある古墳(円墳)内部の復元展示がありました。

 

叡福寺16は隣の町で博物館13から近い。

 

現在は宮内庁管理で立ち入り禁止ですが、残っている記録から再現しています。

 

 

点字板がコンパクトで分かり易い。お棺は黒漆塗り。

 
講演会

講師①: 一本崇之 氏(大和文華館)「古代四天王寺の残影-伝来宝物と史料からー」

一本氏の前職は四天王寺の宝物館の学芸員。四天王寺は落雷、空襲などの災害で何度も焼失したので、伝えられた資料は多くありません。再建に伴って、昭和の発掘調査が行なわれました。

 

フムフムと思ったこと…

•現在の四天王寺の敷地は甲子園球場二つ分に相当する11ha

 

舎利

•四天王寺は舎利を大事にして、舎利職を置いています。

 

太子が数え2歳(今でいう1歳)の時、「南無仏」と手を合わせたところ、手のひらから仏舎利が出現したびっくりという話が伝わっているからです。

 

四天王寺にはお釈迦様の遺骨とされるいわゆる舎利と太子の手から出現した舎利と二つ。

 

五重塔

昭和に再建された五重塔には階段があって登ることができます(毎月22日)。さりぃも登ったけど最上階に仏舎利が祀られていたとはあまり意識せんかった。

 

亀石(ここ撮影禁止)

亀井堂の水槽が7世紀の飛鳥時代の石で、明日香村にある酒船遺跡と同時代という話は知ってしました。今回は、四天王寺の亀の部分は後付けで元々の形は酒船遺跡とそっくりな形という話に驚き😲お堂が立っているので見えませんが現在も湧き続ける水(講演後質問しました)を利用して何か儀式をしていたという話でした。

 

古墳時代のブランド石材、播磨の竜山石が使われています。

 

亀の池のほうも湧き水ですかと聞くべきやった💦

 

絵堂

今でも絵解きが行われる聖徳太子絵伝のルーツは奈良時代らしい。

 

絵伝は法隆寺にも伝わります

 

四天王寺に伝わる最古の絵伝は徳川秀忠が再建した絵堂に狩野山楽が描いたもの。江戸時代の火事による損傷があります。

 

伝世品(寺宝)

•直刀(飛鳥時代、国宝)

北斗七星が象嵌された刀と飾りのないシンプルな飛鳥時代の直刀のペアが伝わっています。正倉院、法隆寺にも同じペアが伝わっているので、聖徳太子の持ち物であったという寺伝はほんまかも。

 

•赤い布の欠片(唐花文袍残闕)

太子が着用したと伝わる緋色の衣装の一部で、飛鳥時代のものです。絵画では太子のトレードマークは赤い衣服なので、太子の所有物であった可能性は十分。

 

確かにこれも赤やわ

 

金堂のご本尊

昭和に再建された金堂のご本尊は別尊雑記に基づいて造像されました。

 

↓これは大阪地下鉄のポスターにある金堂の救世観音

 

別尊雑記自体の成立は平安時代最末期作成やねんけど、用いられたのは1321年バージョンというややこしい話。

 

960年に四天王寺は全山焼失に見舞われ、仏像の安否は不明。従って、後に描かれた図像の初代本尊かどうかについても不明(これも質問した)。

 

↓向かって左の図が別尊雑記らしい。

 

ポスターの右側には試みの観音と呼ばれる白鳳時代の像で8月の千日詣りの時に聖霊院で御開帳されます。

 

京都三千院の救世観音も四天王寺の本尊を模したものと伝わります。

 

四天王は法隆寺金堂のものとも似ているそうです。筋力ムキムキではなく文官タイプ。

 

(続く)