京都国立博物館の土曜講座と清風会の講座を拝聴しました。

 

奈良県立歴史芸術文化村の立ち上げに尽力された竹下繭子主任研究員のお話でした。芸術村では修理の現場を見せます。以前は信仰心優先で、舞台裏は見せないという方針だったらしい。

 

 

奈良県の前知事が文化財の保存を見せるようにという内容の提言をしたことがきっかけで、2021年に文化財保護法が改正され、博物館、美術館は保存から活用=見せるに軸足を移したようです。

 

 

泉穴師神社

泉大津市にある泉穴師神社延喜式にも登場する古社

 

 

二上山を越えた先にある延喜式に登場する穴師坐兵主神社三輪山の傍)とも関係があるようです。

 

 

現在のご祭神は記紀神話に登場する天忍穂耳尊栲幡千千姫命の二柱。

 

 

天忍穂耳尊は天孫降臨した瓊瓊杵尊の父です。

 

栲幡千千姫命は織物の神様で、高御産巣日神の神の娘です。

 

和泉の国には奈良時代に元正天皇の離宮が置かれたことが正倉院文書からも窺えます。

 

新羅からの客人へ供する酒を造る米を提供したことも記録にあります。白村江の戦では日本が敗戦した相手に出す酒なので、特別な米と考えられたようです。

 

神像の特徴

•大量の神像

平安から鎌倉時代までの木造の神像80体があって重要文化財に指定されています。さらに3体が江戸時代に作成されたものがあります。全て、通常非公開です。

集合写真↑の撮影はかなり大変💦だったようです。

 

これだけの数の神像が揃っているのは京都一条(別名妖怪ストリート)にある大将軍八神社ぐらい。こちらは都の東北の方位を護る神社)で、宝物館があって神像だけではなくいろいろ展示がありました。

神像の他にご神宝は伝わっていないようです。

 

木造

全てヒノキなどの一本の木からできています。仏像は割れるので木芯を避けて作りますが、神像は芯の部分を含んでいます。平安時代のオリジナルの彩色や截金細工の伝えているものも。全て坐像ですが、膝を小さく作ったり省略するので、形が扁平で(飛鳥時代の仏像みたいや)、自立しないものも多いようです。

 

衣装

男性は平安貴族の服装、女性は唐装↓

 

女性が唐装なんは織物が大陸から伝わったということなんやろうか?あるいは土着の神様じゃないよ、ということなんかな。和装の女神もあります。

 

神仏習合

神仏習合は奈良時代から始まっていて、それも気比神宮(福井県、715年、元明天皇)や宇佐八幡宮(大分県、725年、聖武天皇)など地方から始まったらしい。神仏習合は日本オリジナルではなく中国にも記録があります。わかりやすく、資料を用意していただいのがありがたい。

 

 

日本の神様には一定のお住まいがなく、お祭りの時に依代に来ていただいていました。神社に社殿が出来たこと自体が仏教の影響で、神宮寺という仏教施設が附属することも多くありました。明治維新後の廃仏毀釈まで続いた立派な日本の伝統。

 

神像が造られるようになったのも、仏教の影響です。仏教は日本統一のツールという用いられたという説明と、記紀神話に登場する現在の祭神が祀られる前には土着の神様などが祀られていたであろうと説明がありました。仏教の広がりと記紀神話の神様を祭神に割り振って、神社を序列化するというのは多少、時間差があるけど裏表の関係なんかも。

 

聖武天皇が全国に国分寺と国分尼寺を建立していったことと神仏習合の関係もチェックすると見えてくることあるかも。

 

ここで質問、神像が木で作られたのは、巨木などが神の依り代とされたから。人工物の依代は消耗品的な扱いのものも多くなかったような気がするねんけど。仏像と違って直接拝まれた様子は感じられませんが、依代として作られらしい。神様が救いを求めて仏道修行が出てくるので、人間の延長線にあって修行する神様という側面を表したんかな。金箔の張られた像もあって、仏像的な扱いの可能性もあるそうです。

 

文化財修復

神像の修復は明治時代(1899年)に美術院所長であった新納忠之助の手によって行われてました。この方、彫刻が専門でしたが、岡倉天心の強い勧めで文化財修復の道を進み、明治時代の木造の修復の大半を手掛けたようです。

 

現状維持を基本とする修理方針を確立した人らしい。

 

 

(終わり)